「でもそれでは・・・・」 もう一度お市の方が言いかけると、 「急がねばならぬ」
長政はきびしい声で叱りつけた。が、すぐそのあとでは声をおとして、 「な・・・・お父上がお待ちかね・・・・信長どのも待っておられる。よいか。心を静めて」 と、やさしくさとした。 お市の方はがくりと心の折れてゆくのを感じた。何か大きく声をあげて泣きたくなった。 不自然さは感じながらも、みんなで死のうと覚悟している間は、心のどこかに鬼神が棲
まっていた。それが、今はうたかたぼように消えてゆく・・・・ (姫たちはこれで助かる) それは充分歓んでよいはずなのに、かえって心は不安にゆらいだ。人間は死のうと思いつめている時よりも生きなければならない時の方がはるかに臆病になるらしかった。 駕が三挺用意された。 最初の一挺にはお市の方、次には茶々姫と高姫が乗った。最後の一挺には達姫を抱いた乳母が・・・・ 本丸の門まで長政は見送った。 まっ先に藤掛三河、しんがりに木村小四郎が松明
をささげて従い、門を出ると、お市の方は良人を振り返った。 長政は朱塗りの大薙刀を突いて、じっと妻の顔を見ていた。 「ではお先に」 「あとから参る。姫たちを・・・・」 お市の方はなぜかぐっと胸がつまって、ハラハラと涙がこぼれた。 「ゆけ!」 「は・・・はい」 行列は動きだした。休戦の布令
が行きわたっていると見えて、どこもひっそりと静まり返り、お市母子を迎える織田方の軍兵は道の両側に堵列
して一行を通した。 「お茶々・・・・」 続いて来る駕に呼びかけると、 「はい」 と、高姫ともども声をそろえて返事があった。 「もう討ち死にはせぬそうな」 お市の方はそう言って、はじめてじっと眼を瞑
った。 幼い者の命を断たずに済んだ安心が、ようやく全身をあたたかくゆるませた。 お市の方にはどうすることも出来なかった戦場から、一歩一歩春の花野へ歩みだしてゆく。悲しいのか、うれしいのかわからぬままに、そわそわと心が騒いだ。 京極曲輪の近くにかかった。 まっ先の藤掛三河が何か言っている。行列はとまった。と、お市の方の駕脇につかつかと、一人の小男が近づいて、 「市姫さま!」 と声をかけた。 「あ・・・・こなた様は」 「羽柴秀吉にござりまする。途中はお案じなく。おお、姫たちもお元気で」 秀吉はそういうとこぼれるような笑顔を松明の光にうかせて、 「通れ!」 と大きくあごをしゃくった。 運命の行列はふたたび羽柴勢の堵列の下を粛々と動きだした。 もう山王丸曲輪に近くなった、渓流の水音がかすかに耳に入って来た。 |