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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/22 (金) 別 離 (三)

「お世話になりました。ここを発つ時には人目もあるゆえ言葉を交わすことはかないますまい。厚くお礼を申します」
於大はすらりと立つと短い袖を抱くようにして小腰をかがめた。嫁いで来たときは玩具おもちゃ のように眼に映った。それがいまでは雅楽助の姿勢を改めさせるほど気品と落ち着きを身に着けている。
「お屋敷さま。何も申されますな。ただわれわれの力に及ばぬ成り行き、義理と申すを怨むばかりでござります。その代わり・・・・」
雅楽助はそこで子供のような気負った様子で胸をたたいた。そうせずにはいられないほど彼の胸はものの哀れでいっぱいになっていた。
「竹千代さまは・・・竹千代さまは引き受けました! 岡崎のおとな (老臣) どもが、生命を尽くしてきっと街道一の武将に育て上げまする」
「おお、朝日が出かかりました。あの空の清々すがすが しさ」
「お屋敷さま!」
「雅楽助どの、みんなの上にきっと い日が照りましょう」
於大は笑いはしなかったが泣き顔もみせなかった。人目に触れては広忠の心遣いを裏切ると計算したのに違いない。軽い目礼を残してそのまま離れて消えていった。
出発はそれから一刻半の五ツであった。
道筋は雅楽助の邸を出て菅生櫓から川添いに不浄門へ廻される。表向きはどこまでも不都合あって離別される追放者の計らいで、刈谷からの迎えはなく、
「── 兄下野守不所存につき、離縁のうえで送り届ける」 形式だった。
於大が離別と決まったので同じ松平一族、形原かたはら の紀伊守家広に嫁いでいる於大の姉も、この日ともども刈谷へ送り返される手はずになっていた。
六ツ半になると、雅楽助の裏門前にはポツポツ人が集まりだした。
女房たちは顔を蔽いはしなかったが、男はみな笠でおもて をかくしていた。最初にやって来た男は誰に眼にも肩幅でそれとわかる大久保新八郎であった。彼はぐいぐいと女房たちを押し分けて、竹垣の前にすすむと、身をかがめて草鞋わらじ の紐をきりりと締めた。すでにこれは付き人のうしろから於大を見送るつもりなのだ。次にこの家の主人、雅楽助がこれも草鞋がけで出て来て新八郎の身ごしらえを見るとニヤリとした。
乗り物は菅生門の外に据えられ、そこまで於大は歩いて行く。表向きの付け人は金田かねだ 正祐ただすけ安部あべ 定次さだつぐ の二人であったが、やがて集まった人々の中には安部大蔵も石川安芸も大久保新八郎もみな混じっている。
於大が出て来ると、真っ先に女房たちの中からすすり泣きが湧起った。
「おいたわしい。神も仏もおわしまさぬか」
「ほんに、このようなご立派な北のお方を」
「殿様はお悲しみのあまり伏せっていますそうな」
いつか女たちは事の真相を見抜いていて、眼の前に於が来ると、声をあげて泣き崩れた。
於大はその女たちの中に華陽院の姿を求めた。自分と竹千代の縁の薄さも悲しかったが、母と自分のあり方もたま らなかった。
菅正門の曲輪を出外れようとするときに、
「お屋敷さま!」
鋭い声で、とうとう、走り寄った女がある。

徳川家康 (一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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