まだ日は出なかった。 起き出した小婢
が、北側のかまどで朝餉
の煙を上げている。雅楽助はそれに声をかけず、崩れかかった遅咲きの百日紅
の下を庭へ廻ってハッとした。 すぐ眼の前の土の上に、於大がうずくまっているのである。 もう髪はきれいに梳かれてあった。化粧のあとは見えなかったが横顔は匂うような豊かさで、かすかに瞼が腫
れていた。 声をかけようとして、しかし、雅楽助はそっとうしろへ身をすさらせた。 於大の顎
の下に、まっ白な掌が合わされている。向かっている方向には、風呂谷の竹千代の居所があった。 何を祈っているのか、うしろに雅楽助が立つのさえ知らず、じっと前方を見つめている。 雅楽助はまた一歩下がって、百日紅の肌へ迫るように手を触れた。襟足に花と露とがともにこぼれて、悲しさがツーンと心にしみとおった。 (──
運命・・・・) それともまともに顔を合わせた気持ちなのである。 この若い母親は、ここに閉じ込められてから一度も竹千代とは会っていなかった。会わしてくれと忠広にせがんでいたのを雅楽助は知っている。会わせようとすれば方法はいくらもあった。乳母のお貞が連れて雅楽助の女房を訪ねたことにすればよかった。 しかし広忠はそれを許さない。自分では竹垣を斬りはらって来たりしていながら、竹千代に会わせてはわざわざここに於大を閉じ込めた意味がなくなると考えているらしい。 於大の祈りの止むのを待って、雅楽助はふたたび於大に近づいた。 「お屋敷さま」 於大はびっくりしたように雅楽助を振り返った。 「とうとう、お別れの日が来ました」 そう言うと雅楽助はあわてて視線を色づきだした東の雲にそらしながら、 「別れを惜しんで、女房小者、たくさん門前に押しかけましょう。そのときに、よおく目とめてご覧じませ」 「何を見よと言われます?」 澄んだ声であった。悲しさを乗り越えようとして闘い、すでにそれに克ちかけているひびきであった。 雅楽助はぐっと胸が熱くなって、逆に声がもつれていった。 「たくさんの女子供の中に、無心にあなた様を見送る者が一人ある。お貞どのに抱かせて菅生川の曲輪のわき、大榎
の下あたりに」 「竹千代のことであろうか、雅楽助」 「さあ、それは存じませぬ」 「竹千代のことならば、ご心配下さるな」 「と、おっしゃいますと、お会いなさらぬと・・・・?」 「雅楽助」 「はい」 「心尽くしは身にしみます。が、だい
は救われました。この眼で会うばかりが会うのではないと気がつきました。竹千代・・・・ならば、ずっと心の中で会っています」 「お屋敷さま・・・・」 雅楽助はたまりかねて、二、三歩近づき、 「このわしの方がうろたえておったと見える。お許しくだされ。お許しくだされ」 |