菅生
川の川底は冷たく澄んで籠崎
の砂洲は今朝までかすかに時雨
れていた。 風呂谷で鳴くのであろう狐の声が二声三声鼓膜にひびくと、鶏のときはやんで屋敷内は妙に冷たい静けさに占められた。 酒井雅楽
助 は辰巳
やぐらの屋根をよぎる朝霧の流れの早さに足をとめ、 「秋か・・・・」 ぽつりと唇をついた言葉の不吉さに思わずあたりを見廻した。 今日は於大の方がこの城を去る日なのである。 (お屋敷は陽気を持って嫁いで来られたが・・・・) またふと出かかる吐息をおさえて、 (思うまい・・・・)
と、首を振った。 彼は、この家で於大を迎えた。そして今またこの家から於大を送り出そうとしている。人も世の哀しさというよりも、もっと厳しい感情が胸をひたして、ともすればよろめきそうであった。 彼は先ず玄関の内外を見て廻った。小者が三人せっせと通路を掃いている。掃くあとからときどき落ち葉がこぼれて来た。 「ご苦労。ご苦労」 小者の会釈に答えながら、雅楽助は昨夜のうちに結わせた門外の竹垣を見て廻った。 嫁いで来る時もそうであったが、離縁されて去ってゆく於大を見送ろうとして、今日も家中の女房どもが集まって来ているに違いない。感情に激して於大の袖に取りすがる者があったりすると、子供を残してゆく於大の心がかき紊
される。 (まだ何と言っても十七歳なのだ・・・・) 広忠は、その於大への愛情を、家臣にまで堅くかくそうと背伸びしている。今川方への気兼ねのほかに刈谷への気負いもあった。 「──
何の女子の一人や二人」 子供らしい構えの奥には、家臣に自分の悲嘆を見せまいとする必死の努力が含まれている。 於大にとり紊
されると、そうした広忠の心遣いは無駄になる。立つ母鳥の姿勢は、あとに残る竹千代の上にしのまま影をひくからであった。 (── さすが若君のご生母。雄々しいもの・・・・) そう印象させて送り出すのが於大への贐
に思えた。 「改めて申すまでもないが、誰かお屋敷に取りすがろうとする者があったら、お控えなされ・・・・と叱るがよいぞ」 門外の掃除を見廻っている用人の小田
和兵衛 に念を押すと、 「それでも近づこうとする者がございましたら」 和平衛は不機嫌に訊き返した。ともども棉を作り、機
を習った女房どもの、於大に方への親しみを知っているからであった。 雅楽助はぐっと詰まった。 「そのときには・・・・」 と、再び門内へきびすを返しながら、 「殿の不興をこうむって、ご離縁になるのだと申すがよい」 だんだん霧が晴れていった。椎
の葉からポトリ、ポトリと露がおちる。雅楽助はその露の下をこんどは於大が岡崎で最後の夢を結んだ離れの方へ歩いて行った。 |