広忠は於大に手をとられたまま部屋へ上がった。小婢
は次の間に下がって、灯のゆらめきが二人の影を畳に這わせた。 庭では虫がまた鳴き出し、広忠の呼吸もだんだん静かになった。 於大は広忠の手を離すのが怖かった。あらびた後で果てしなく沈んでゆく広忠の心をよく知っている。
「奥方は・・・・」 と、広忠は、わが手を離さずにうなだれている妻に言った。 「予の心・・・・はわかるであろう」 「はい」 「予はそなたと連れ添うには似合わしからぬ男であった」 「いいえ、いいえ、もったいのうございます」 「予は予の心弱さをよく知っている。そなたは女丈夫
、そなたの眼には歯がゆくうつっているであろう」 「いいえ! いいえ! ・・・・」 於大はつよくかぶりを振りながら、こうしたことに気づいている広忠が哀れでならなかった。 「竹千代はそなたの血、そなたの気性をうけている。予よりはきっと強い。あれは泣かぬ。この間ものう・・・・」 「はい」 「庭先の松に根から這い出した蝉
の子を見つけて縁から落ちたそうな。お貞がびっくりして走り寄ったが、竹千代はその方は見返らず望むものを捕らえてから、はじめてお貞を振り返ったそうな」 「まあ・・・・泣きもせで」 「そしてニコリと笑ったそうな」 於大はいつか顔をあげてじっと広忠を見上げていた。竹千代に会えない悲しみは強かったが、良人の口からその噂に聞ける幸福感は見る間に瞼を熱くした。 広忠も同じ想いらしい。彼の左手はいつか於大の肩に廻った。つかんでいる右手にだんだん温かみが戻って、胸の動悸がともに打ってゆくのがわかった。 「そなたも刈谷の下野どのが、織田に志を通じたことは存じておろう」 「は・・・はい」 「その下野どののもとからまた使者が参ったことは」 「於大は首を振った。 「杉山元六が参って、予にも織田方へに加担をすすめて参ったのだ」 於大はこくりと息をのんだ。また広忠の感情が昂ぶるのではあるまいかと、いっそう目に胸を着けた。が、広忠は激昂しなかった。いよいよ静かになって、 「無理もない」
と頭上でうなずき、 「後ろ盾がのうては立てぬ世じゃ。織田か今川か。が、いずれが勝ち、いずれが敗れるかは、予にはわからぬ。とすれば、この広忠は父祖よりの義理に従い、うかつに動く愚かさは慎まねば相ならぬ。そなたに予の心労がわかってくれるか」 「は・・・はい」 「竹千代のために、できればそっとこの城を残してやりたい。そっと残す・・・・それが予にはせいいっぱいの仕事じゃと・・・・近ごろそれを考える」 於大はしずかにすすり泣きだした。ようやく二十になったばかりで自分の無力に気づいてゆく広忠の老成に、かえす言葉はなかったのだ・・・・
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