「人間が思うままに生きてゆけるものであったら・・・・」 また広忠はつぶやいた。於大はそれをこの乱世に生まれ合わせたすべての人の心の奥の声だと思う。 「予はそなたと竹千代とを伴
なって人里離れた山で生きたい!」 「だい
も・・・・だいもそう思います」 「しかしそれはかなわぬこと、そなたも合点してくれるであろう」 「はい」 「ただのう・・・・予はそなたと別れた後の淋しさに耐え得られるかどうかを時々考える」 於大の眉はびくりと動く。とうとう、広忠は離縁のことに触れて来た。 覚悟しているはずであったが、にわかにツーンと血が疼
いた。ことによると広忠の今夜の荒々しい動作は、これを言い出すために己を鞭打つせいいっぱいの虚勢であったのかもしれない。 「このうえ細かく事情は説くまい。そなたの慧
さはすでにそれを察している・・・・のう、察しているであろうが」 於大は答えなかった。もう泣くまいと思ったし、泣かせまいとして、わざわざ華陽院まで訪ねてくれたこともわかった。が、女の感情は別らしかった。自分のすがっているこの膝に、あるいは再び触れることはないかも知れぬと思うだけで、あとかたもなく冷静さをかき乱す。 広忠がもっと自分につれなかったら、・・・・於大の嗚咽が高まると、広忠は憑
かれたようにな早口にまっていた。 「これ、聞き分けないぞ。悲しいのはこの広忠がそなた以上じゃ。のう、こらえてくれ!
とかく思うことかなわぬが浮世の習い。今日が今生
の別れかも知れぬ。そうじゃ。別れになるであろう。が、来世があるぞ。あの世と申すところがあるぞ。そなたがいなくなったら予の健康は長く持つまい。が、死後はな、極楽とか申す蓮
のうてなで待っているぞ」 そこまで言って急に口調を改めると、 「今度の事では家臣に一切指図は受けぬ。どこまでも予の一存で申すのじゃ。よいか納得
せいよ」 於大は良人が哀れでもう泣いてはいられなかった。すべてが於大を説いているようで、そのじつ自分に言いきかせ、自分を納得させようとする広忠の言葉であった。 「殿!」 於大は顔をあげてまたじっと広忠を見上げた。 「だい
は殿のお顔を眼に刻んで参りとうございまする」 「おお、予もそなたの面輪
は眼にも心にも刻んでいる。予の心を察してくれよ」 於大はうばずいた。うなずきながら眼はそらさず、 「ずいぶんお体をおいといなされて」 「おお・・・・」 「それから・・・・それから・・・・もう一度だけ、殿のお手に抱かれた竹千代に会わせて下さりませ」 「竹千代に・・・・」 「会わせて下さりませ!
もう一度会わして下されたらだい
は決して泣きませぬ。殿の仰せのとおり、黙って刈谷へ戻りまする。殿! なぜご返事を・・・・ 殿・・・・」 広忠はいきなり於大の背に面を伏せ、声を殺して泣きだした。 |