華陽院の立ち去る気配に、於大は思わず立ちあがった。 「母さま ──」 我を忘れて口にすると、甘えた感情が言葉につられて胸いっぱいにひろがった。 「母さま・・・・」 思わず庭下駄を手さぐった。華陽院は残照の中で足を止めたが、自分お若い日と同じ苦悩に踏み込んでゆく娘を見返りはしなかった。 「この世では、もうこれ限り、お眼にかかれぬかも知れませんなあ・・・・」 声も言葉もいつものお屋敷から十七の娘の甘えにもどっている。 華陽院は答えない。といって、歩き出そうともしなかった。背を向けたままひっそりと娘の呼吸を心に刻んでいるようだった。 まだ言いたいことがたくさんあったが、それは口にできることではなかった。刈谷の下野守がはっきり織田方と去就を決めてしまった以上、松平家にも中立のあろうはずはなく、於大の去るのは再びこの地を干戈
にゆだねる前触れだった。 一方は良人と子。一方は兄弟の悲しい戦いが果たしてこの娘に耐えられるかどうか? 「母さま、もう一度・・・・」 すっかり取り乱した於大の言葉を耳にすると華陽院は、振り返るかわりに胸の数珠をまさぐりながらしずかに垣を離れてゆく。於大は青竹に身を乗り出した。 陽がおちた。矢倉の屋根から薄紫の暮色が急にあたりへ広がって、書院の障子だけが哀しい白さで暮れ残った。 於大は唇を噛んで泣くまいとした。母の姿をそのままに瞼に灼きつける、忘れまいと必死であった。 今川の使者はその翌日、辰の刻に役者を引き連れて岡崎を立ち去った。広忠は老臣を従えて伝馬
口 から生田
村 のはずれまで見送った。 別れの挨拶を交わすまではとにかく明るく見えた広忠だったが、引き返すときには額に太い癇筋をうねらせて、白すぎる頬をバラ色に染めていた。 「このまま、そちの屋敷へいこう」 石川安芸のもとへ待たせてある、刈谷の使者の杉山元六を本丸へ通さずに対面しようというのである。 「殿!」 「なんだ」 「堪忍が大切でござりますぞ」 安芸がたしなめると、 「予は堪忍するために生まれてきたのかッ」 広忠はきっと馬上で空を睨んで叩きつけるように言い放った。 「御意
のとおりでござる」 「いつまで・・・・いつまで堪忍すればよいのだ。死ぬまでか」 「御意のとおり」 広忠は黙った。老臣たちも無言であとに続いてゆく。伝馬口へかかると、広忠は馬を降りた。 「予が悪かった、刈谷の使者を鄭重
に本丸へ案内せよ」 双の眼を赤くして、安芸に言った。 昨日の風がまだ止まず、西北の巽
矢倉の大屋根へ雲が疾 く流れていた。 |