於大はなつかしさに胸がふるえ、あわてて立って庭下駄に足をかけた。と、しぐそれを押さえるように、 「そのまま、そのまま」
と華陽院であった。 「人目にかかってはなりません。さりげなく、縁でこの母のひとり言を聞くように。答えはいりません。答えてはなりません」 「は・・・はい」 於大は口の中で小さく言って、眼では木斛のかげを探した。紫の頭巾
が見える。ほっそりした足が親猫の向こうに見える。シーンとした一瞬の静もりを母子の吐息の音が縫った。 「お屋敷は竹千代どののために、岩津の妙心寺へ赤銅
刻 みの薬師像を納めなされた」 於大は答えの代わりに、いく度も縁でうなずいた。 「妙心寺の僧たちが、お屋敷の心を思いやって護摩
の法を修したるところ、火焔の立ちは、かって見ぬほど熾
んだった。竹千代の武運類
なくめでたいゆえ、何とかお屋敷にお知らせしたいと・・・・心を砕いていましたそうな」 於大は唇を噛んで嗚咽をこらえた。 「それから・・・・」 母はこれも、しばらく声を絶って、木斛の葉をまさぐりながら、 「駿府のご使者は明早朝に帰られる。おとな
(老臣) どもが、泣き顔をこらえて踊りを見せられるも今宵限りと、これはこの家のあるじ、雅楽正が妻女にもらしていましたそうな」 ゆさりと木の葉が揺れたのは母が掴
んだ小枝をちぎった音らしい。 「あれこれと事の多い。刈谷の下野どのからは、追放を免れた小笹の兄の杉山元六が、これは殿へ織田方随身のすすめに参り、石川安芸が屋敷にとどまって、駿府の使者の帰りを待っていられるそうな。たぶん・・・・ご使者が帰られたあとで殿と会われる。が、会わずとも事の成り行きは知れていよう・・・・と、これは大久保新十郎が、ばばを訪ねた折の独言
」 於大は全身を耳にして、そっと縁の端に坐った。乳に飽いた仔猫が一匹、あぶない足どりで母のふところを離れると、自然に生えた葉
鶏頭 の紅
い下葉に戯れだした。 「殿は・・・・」 と言い出してから華陽院は、 「広忠どのは・・・・」 と、言い直し、 「お屋敷がふびんじゃと仰せられ、近ごろ奥へは足を踏み入れられぬ。お部屋のお久のもとへは顔を出さぬと、これは老女の須賀が、この華陽院へ奥庭の初柿を届けてくれた折の言葉であった」 「・・・・」 「女の冥利
は・・・・そのような小さなところにあるもの。この華陽院は、前の良人のもとを離れ、子と別れるそのときに、愛
おしがられた心の底から・・・・そう思うことが救いであった」 「・・・・」 「広忠どのは、遠からずそなたのもとへ忍んで見えよう。そのときには泣くまいぞ。そなたの分別が、一族ばかりか竹千代の安泰
におよぶこと、父の子ならばよくわきまえて笑われまいぞ。岡崎との夫婦の縁は断たれても、母子の縁は断たれぬものじゃ」 於大は不意にその場へつっぷした。何ゆえ母が垣の向こうに訪ねて来たかがはじめてはっきりとわかったのだ・・・・ |