相手の声に酒気を感じた亀女の方が、あたふたと入り口に手をつかえ、 「どうぞお通りを」
というと新八郎はあたり中にひびき渡る声で、 「黙らっしゃい!」 と、きめつけた。 「竹千代さまご幼少とあなどって、ご都合もうかがわず一存に計ろうとは不届き至極
。その方の名は何と申す」 「はい。亀女と申しまする」 「亀女と申すか、めでたい名じゃ。名に免じて今日の不届きは聞き流す。早々に若君のご都合を伺って来らっしゃい」 「は・・・・はッ」 亀女はびっくりして奥へ引っ返し、まだ目も見えぬ嬰児とお貞に救いを求めるような眼差しを向けた。 由来三河の年寄り
(重臣) どもは硬骨
と気概 を単純に示すのをもって誇りとしている。面倒な理窟は抜きで、君に忠の一筋を追いかける。文武の二兎を追うものは結局一兎も得ないというきびしい悟入
が家風にあった。 むろんそれは、いつの時代にも当てはまることではなかった。が、明けても戦、暮れても戦の乱世では、文武に志を分けていては結局どちらも未熟に終わる。今日生きて明日を知らず、その間に懐疑する暇さえないというのが実状では、単純に人生を割り切って、一心に武を練るのが、戦場で生きる秘訣であった。 その中でも大久保一族は硬骨を以って鳴っている。単純な下僕で生きることが、一番安全であり、大手を振って個性を通す道であるのを悟っている。 その大久保一族の中でもとりわけ無法者の新八郎が酒気を帯びての挨拶だけに、二人の乳人
が顔を見合わせて竦 むのも無理はなかった。 「これ、早くせぬか」 と、新八郎がどなった。 「若君にはご機嫌よくわたらせようが」 亀女は困って、そっとお貞に耳打ちする。お貞はうなずいて、嬰児の裾のあたりに両手をついた。 「若君に申し上げまする。上和田の大久保党にその人ありと聞こえた武勇のお方、新八郎忠俊さま、年賀言上のためまかり出ましてござりまする、いかが取り計らいましょうや」 外で聞いていて、新八郎はニヤリと笑った。 「清左衛門の嬶
め、味をやるわい。それにしても、聞こえた武勇は追従
がすぎる、懲 らしめてやらねばなるまい」 やがてその新八郎の前に生真面目
な表情で出て来たのはお貞であった。 「若君にはもう見えられるころであろうと、お待ちかねでござりました由
、お通り下され」 「なに、待っていたと? しかと若君がそう申されたか」 「はい、そう申されました」 「それはまたませたものじゃ。生まれて十日たつかたたぬに口を利かれるとは恐れ入った」 「はい。普賢菩薩の化身にましますゆえ、そのゆえかと存じまする」 「ワッハッハッハ、では通るぞ」 ここでは誰も彼もが包み切れない歓びの中にいる。 大久保新八郎は、ぐっと口をへの字にして肩をいからせて通っていった。
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