〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/19 (火) 照る日、曇る日 (七)

「一族の和合がのうて、この乱世をどう生きぬける。被官も庇護もみなその時々の相手の都合じゃ。西からは織田の狼、東の今川とても風次第。もしわれらに和合結束のことがなく、一族相争う」ことがあったらそれこそどちらかの好餌こうじ になる。老臣どももよくそれを知っているゆえ、二虎の誕生に一点の憂いをとどめていると睨んだ。殿にしてもむろんのことじゃ。そなたをはばかり、わしに遠慮して、心にかけているのがわかる。もしその時にそなたが不満があると言ったらどうなるのじゃ」
お久はいつか枕に額をつけて、全身を堅くして泣いている。
「言いたいことのあるのはわかる。が、世の中に言うべきことと言うべからざる事とがある。この父の眼から見ても、そなたは殿によく仕えた・・・・そうであろうが」
「それゆえ・・・・それゆえ口惜しゅうござりまする」
「そこじゃぞ、お久 ──」
乗正はちらと部屋の隅の万を見て、万が同じように泣いているのを確かめると、
「そなたは殿をいと おしく思うているのであろう」
と、声をおとした。
「は・・・・はい」
「生まれた和子も愛おしかろう」
「は・・・・はい」
「それならば、なおさら堪忍が大切とは気がつかぬか。そなたがもしこの計らいに不満を洩らさば、殿の側からしりぞ けられるとは気がつかぬか」
「え・・・・?」
「あとの和合を考えて、誰かが生まれた和子の生命を狙うとは思わぬか。松平党の中にはな、お家のためとあらば泣いて事を断ずる忠僕どもが、五指にあまる事実を知らぬか」
「・・・・」
「この父はそなたも無事、和子も無事、それで一族の和を傷つけぬ方法をと、三方思うて計ろうた。よいか。決して殿を怨むでない。老臣どもを怨むでない。怨むならばこの父を・・・・なあお久」
お久の枕からまたひとしきりしみ入るような嗚咽おえつ が糸をひきつづける。
同じころ ──
二の曲輪母櫓おもやぐら の下にある風呂谷の於大の方の産室では、すでに父子の対面も済み、竹千代の名をつけられた嬰児が、産室に隣り合ったわが居室をあてがわれ、無心な眼をパッチリと開いて虚空を見ていた。
色はあくまでも赤く小さな拳の手首は二重にくびれている。居室はここも以前のつぼね の一部で、豪華ではなかったが、きれいに拭ききよめらてていた。すでにそばには選び出された乳母も二人ついている。
一人は家臣天野あまの せい 左衛ざえ もん の妻おさだ 。もう一人は渡村の清水しみず まご 左衛ざえ もん の妻の亀女かめじょ 。どちらもこれまた嬰児の赤さにおとらぬ血色で、まだ奥仕えになれぬこわ ばりを体中に見せている。
産室へはむろん誰も入らなかったが、ここへはすでに老臣どもがおとずれる。いずれも遠慮なく新しい乳母を叱りとばしていくので、どちらもいっそう堅くなっているのがわかった。
「頼もう」 と、また声がかかった。
「大久保新八郎忠俊、竹千代さまに年賀言上のため参上いたした。お取り次ぎめされ」

徳川家康 (一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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