「一族の中で相争うほど愚かなことはないからな。桜井の信定どのを見よ。佐崎
の三左衛門どのを見よ。一族の人々が一つ不平を持つたびに、松平家は小そうなった。祖先代々の居城であった安祥を失い、渡理
、筒針 まで敵を呼び寄せてしもうている。力を協
せて羽搏 けばこれほど大きな力はないが、肉親が争うたらこれほど惨めな負い目もない。その辺の道理がわかるかな」 事なかれ主義の乗正は、どうやらお久の不平を押さえにわざわざ産屋をおとずれたものらしかった。 「わしは今日も、三ッ木の蔵人どににそれとなく忠言して参ったが、この殿の叔父御
もまた、殿の力不足にじりじりしている。大をのぞむものにこの焦りは何より禁物
、力がなければ湧いて来るまでじっとみんなで待つ辛抱が大切じゃ」 「お父さま ──」 お久はたまりかねて、顔をそむけたまま父に言った。 「久はまだ血が治まりませぬ。一人になりとうございます」 「おおおお、これは心づかなんだ。すぐ帰るぞ」 「久は・・・・お七夜を迎えても名もいただけぬ子を産んで・・・・頭が重うございます」 「おお!そのことであったぞ。その事で」 乗正は思い出したように、もう一度ポンと白扇で膝をたたいた。 「お久、よろこべ。わしはその和子の名前を告げに参ったのじゃ」 「えっ!では和子に・・・・」 「おお、ついたぞついたぞ、よい名がついた」 「なんと・・・・なんと申しまする?」 「恵新
と申す」 「ケイシン・・・・? ケイシン・・・・? それは松平家にゆかりのある名でござりますか」 「ハハハ・・・・」 と乗正は笑った。笑いながら眼の中にまた薄く涙がにじんでいるのは、この実直凡庸な父にもまた、娘が哀れに映っているのにちがいない。 「ケイは知恵の恵、シンはあらたじゃ。恵新、日に日に新しい恵さで世を開く。よい名であろう。むろん、松平家にそのような名があったのではない。これは松平家などという小さなものではなく、三千大世界を書く、み仏の子の大きな名じゃ」 「えっ?
に仏の子の名とは・・・・」 「仏弟子じゃ。僧侶じゃ。生まれながらの名僧智識じゃ」 そいううと乗正は不意にぐっと顔をそむけてはげしく眉を震わした。 「泣くな!泣くではないぞ!
竹千代どののご誕生の、同じ年同じ時刻に生まれたのがこの不運・・・・ではない幸運じゃ。双虎ならび競うて傷つくことがあっては一大事。それよりは、はじめから仏門に入ってな、竹千代どのの武運と祖先の霊に仕える・・・・」 そこまで言うとお久は蒼白な顔を立てて、 「それは・・・・それは・・・・どなたのお計らいでございましょう?」 震える声できっと父を見上げて言った。乗正はあまたあわてて顔をそらし、 「泣くまい。泣くまいぞ・・・・」 自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。
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