お久の方が峰の薬師の奇蹟の話を聞かされたのは二十六日の午
の刻すぎであった。 同じ時刻に同じ男の子を産んだ・・・・それだけですでにみじめな敗北感に襲われているところへ、 「お屋敷さまの産室へは松平村の六所明神からも産湯の水が担ぎ込まれましたそうな」 そんな話を聞かされて、そのうえ相手は普賢菩薩の生まれ変わりだという。誰がそう決めたのかわからなかったが、それから間もなく、お久の生んだ子はその尊い仏の化身に仕えるために、ついて生まれた従者なのだと言いふらされた。 お久の血はそのときカーッと頭へのぼった。 ひどい発熱に眼が吊り上がり、全身が痙攣
して二日あまり下がらなかった。 (そんなバカな・・・・同じ胤
、同じ愛撫の下に芽生えた子ではないか・・・・) 自分の産後のただならぬことを聞いて、自身で駆けつけぬまでも、お使いぐらいは広忠から来ると思った。 (誰が何と言おうと、ほんとうの愛情は私がつかんでいる) そう信じて来ているだけに、血の紊
れの奥底には広忠を呼び寄せたい女の一念がこもっていた。 しかし、広忠からはなんの見舞いもなく、城内はただお屋敷の子の誕生を祝う声に占められてゆくばかり・・・・ そうなるとお久ははじめから考え直して見なければならなかった。今までは愛情の優越を感じて憎まなかった於大が、急に大きな敵に思えた。いや於大ばかりではない。その於大の色香に迷っていった男心の裏切りに、じりじり疼
くものがある。 「お方さま、さ、雑炊
ができました」 万がしろく湯気の上がる椀をささげて枕辺に近づくと、お久の方は不意にはげしく咳
き込んだ。まだ全身の血がおさまらず、感情の昂
ぶるたびに生命がそのまま流れ出そうな気がして来る。 「まん、まだ食べとうない。隅に下げや」 「でも・・・・召し上がらねば」 「食べとうないと言うに・・・・」 万は困ったように椀をささげて部屋のうちを一巡した。 「ほんに腹の立つことでござります」 「何がじゃ?」 「酒井さまの小者が、須賀さまに申しましたそうな。和子さまお誕生の日に、お湯取りの女子にも子が生まれたそうなが、男か女かと」 「なにッ、わらわをお湯取りと・・・・」 「はい。お殿さまのお心も知らぬくせに、お方さまを下婢
か何かのように思うている。誰がいったいそのようなことを言いふらしたものか」 万はなぐさめるつもりであったが、お久の方は身をかがめて泣き出した。万は、お殿さまの心も知らずと言い添えたが、いまのお久にはその殿の心も信じられなくなっている。 それにしても、あの童女のような於大のどこに広忠を籠絡
する力があったのだろうか・・・・? お久は、おどろいて見据える万の視線の下で、いつまでも身をふるわして泣き続ける。 障子が少し暗くなったのはまた陽の翳
ったせいであろう。どこかで謡
の声がする。それも於大の子の誕生を祝う声か・・・・ |