あまりに家康の声が大きかったので、鳥居三左衛門はびくりとして口をつぐんだ。 「それは噂でのうて、その方が、信玄公を討ち取ったと思い上がった手柄話ではないか」 吐き出すように言い捨てて、 「これ、着物を持て、つまらぬ話で風邪をひきかけた。三左のたわけめ、うまうまと相手のさぐりに乗ってしもうたわ。その竿は相手のさぐりと気がつかぬか」 三左衛門は心外なという表情だったが、家康が小姓の持って来た着物を着てゆく間、黙っていた。 「まことに呆れたたわけじゃ三左は。せっかくの網を張りながら、それを相手に使われるとは・・・・よし、ひとつ家康が思い知らしてやる。みな、しばらく退っていよ」 家康は鎧下をまとうと暴々
しく小姓まで幕の外に追って、 「来い、三左」 と、声をおとした。 「は・・・・?」 「これで誰も聞く者はない。その翌々日、輿はたしかに鳳来寺へ向ったのだな?その方はその後の相手の動きを細かく見ていたはずじゃ、申してみよ」 三左衛門は一瞬きょとんとしていたが、ようやく家康の細かい心配りに気がついて、 {は、はい。仰せのとおり、細かくみまもってござりまする」 と、身をのり出した。 「それがしが鉄砲を放ったのと陣中がざわめきだしたのとは同時、それから八方へ騎馬武者がとび、それが数をふやして戻って来ました」 「ふーむ。そして夜が明けると人質換えの使者が来たか・・・・」 「いいえ、夜が明けると、すぐに山県三郎兵衛が、小さな肩を怒らせて入城いたしてござりまする」 「わかっている。その方の見た場所と、家康の見た場所とは同じではない。それでそちは何とした?」 「それがしは、あの一発で、信玄公を討ち取ったとは思いませぬ。が、たしかに負傷はされたかと存知まする」 「まだ決めるのは早い。陣中で亡くなったという噂はどこで聞いたのだ?」 「山県勢入城のおりに小荷駄を運んで参りました千秋の百姓にござりまする」 「その百姓の申したままを」 「はい・・・その百姓は、信玄公の召し上がる鶏
を持参してその夜陣中にあったところへ轟然
と一発、鉄砲の音を耳にしてきもをつぶし・・・・」 「待て三左! 信玄公は入道せられて十ヵ年間精進潔斎を誓われたと聞いている。それが何で魚鳥の類を食される?
その点をたずねてみたか」 「訊ねましてござりまする。信玄公は胸に病を持たれ、陣中でもつねに医者を召しつれました由、その医者のすすめにて、軍旅の間は潔斎をちき、薬餌
として日々魚鳥を召し上がられたげにござりまする」 「ふーむ」 家康はまたしばらく腕を組んで、 「それから、その百姓は?」 「はい。にわかに人々の騒ぐ中に、お館さまが鉄砲で打たれた。鉄砲でうたれた・・・・という声をたしかに聞いた・・・・とつづいて、ぐったりと動かぬ信玄公を二人の侍がかつぎあげ、二人の医者がうろうろと付き添って仮り屋の中にはこびこんだが、たしかに亡くなられていたようだと」 三左衛門はそこまで話すと、家康の顔色をうかがうようにして言葉を切った。
|