〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/17 (金) 運 命 星 座 (十五)

家康はギラギラと眼を光らし、三左衛門を見据えたままで考え込んだ。
あり得ないことではない。と、いって、うかつに信じられることでもなかった。
戦に勝敗があるのとおなじ正確さで、人に生死はつきものだったが、家康の運命のきわまったかに見えた一瞬、とつぜん当の相手の信玄が倒れてゆく・・・・そんな偶然が果たしてあり得るものであろうか?
「三左・・・・」 と呼びかけて家康はまた黙った。得体の知れないたか ぶりが、彼の五体を刺戟しげき して、うかつに口を開くと声がもつれそうだった。
もしこれが事実ならば、人生の厳粛げんしゅく さに、頭を垂れてとむら うべきだが・・・・そう思いながら、今の家康にそのゆとりはなかった。
陰鬱な空のはしがめくれて、そこから青い空がのぞいたような気がしてくる。
いや、ここで油断したら、その青空はまた雨に塗り込められて、やがて家康を押し流す豪雨に変わらぬものでもない。
(早まるな! 早まってはならぬ・・・)
「お館さま」
家康が黙っているので三左衛門はまたはばかるように口を開いた。
「たとえば信玄公がお果てなされても、武田方ではひた隠しにかくすのではなかろうかと存じまするが・・・・」
「うむ、それはわしも思う」
「もしそうした場合、いったい相手は世間に何と触れさせましょうか」
「それは・・・・鳳来寺でしばらく病を養うと言うに違いないが・・・・」
「ではこの三左、鳳来寺へそれを探りに参りましょうか」
家康は首を振った。反対なのではない。が、それを探ってみてもおそらく真相はつかめまいと思ったからだ。
つねに影武者を引き連れている信玄、おそらく信玄が死んでも、病床にはその一人が せっているであろうし、筆跡をまぎらすための祐筆も用意されているに違いない。
むしろ間諜はその眼で信玄を見、信玄の認めた真蹟を見せられて、いよいよ迷いを深めるだけであろう。家康はついっと床几を立った。
「三左」
「はい」
「よいか、誰のも言うな」
「それはよく心得ておりまする」
「その方はな、これからすぐ村へくだって、武田方が何と触れさせるか、念のためにそれを調べよ」
「はっ」
「よい。行けっ」
「では、ごめん下さりませ」
三左衛門が出て行くと、家康は虚空を睨んで思わずニコリと頬をくずし、崩してすぐに自分を叱った。
(相手の不幸を喜ぶなッ!)
そのくせ発病はたしからしいと思うと、じっとしてはいられなかった。ゆっくりとした足どりで床几の前を一周し、それから静に腰をおろして、
「軍議を開く。元忠も忠世も与一郎も康政もみな集まれと言って来い」
小姓を呼んでそう命じた。

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ