家康はギラギラと眼を光らし、三左衛門を見据えたままで考え込んだ。 あり得ないことではない。と、いって、うかつに信じられることでもなかった。 戦に勝敗があるのとおなじ正確さで、人に生死はつきものだったが、家康の運命のきわまったかに見えた一瞬、とつぜん当の相手の信玄が倒れてゆく・・・・そんな偶然が果たしてあり得るものであろうか? 「三左・・・・」
と呼びかけて家康はまた黙った。得体の知れない昂
ぶりが、彼の五体を刺戟
して、うかつに口を開くと声がもつれそうだった。 もしこれが事実ならば、人生の厳粛
さに、頭を垂れて弔 うべきだが・・・・そう思いながら、今の家康にそのゆとりはなかった。 陰鬱な空のはしがめくれて、そこから青い空がのぞいたような気がしてくる。 いや、ここで油断したら、その青空はまた雨に塗り込められて、やがて家康を押し流す豪雨に変わらぬものでもない。 (早まるな!
早まってはならぬ・・・) 「お館さま」 家康が黙っているので三左衛門はまたはばかるように口を開いた。 「たとえば信玄公がお果てなされても、武田方ではひた隠しにかくすのではなかろうかと存じまするが・・・・」 「うむ、それはわしも思う」 「もしそうした場合、いったい相手は世間に何と触れさせましょうか」 「それは・・・・鳳来寺でしばらく病を養うと言うに違いないが・・・・」 「ではこの三左、鳳来寺へそれを探りに参りましょうか」 家康は首を振った。反対なのではない。が、それを探ってみてもおそらく真相はつかめまいと思ったからだ。 つねに影武者を引き連れている信玄、おそらく信玄が死んでも、病床にはその一人が臥
せっているであろうし、筆跡をまぎらすための祐筆も用意されているに違いない。 むしろ間諜はその眼で信玄を見、信玄の認めた真蹟を見せられて、いよいよ迷いを深めるだけであろう。家康はついっと床几を立った。 「三左」 「はい」 「よいか、誰のも言うな」 「それはよく心得ておりまする」 「その方はな、これからすぐ村へくだって、武田方が何と触れさせるか、念のためにそれを調べよ」 「はっ」 「よい。行けっ」 「では、ごめん下さりませ」 三左衛門が出て行くと、家康は虚空を睨んで思わずニコリと頬をくずし、崩してすぐに自分を叱った。 (相手の不幸を喜ぶなッ!) そのくせ発病はたしからしいと思うと、じっとしてはいられなかった。ゆっくりとした足どりで床几の前を一周し、それから静に腰をおろして、 「軍議を開く。元忠も忠世も与一郎も康政もみな集まれと言って来い」 小姓を呼んでそう命じた。 |