家康の生涯を闇黒にぬりこめそうな信玄。三十余年の辛酸
を粉々に砕こうとして行く手に立ちふさがる巨石 ── その相手が陣中で果てたという噂はあまりに大きい。 「三左!」 裸にままで、家康は、なみの三倍はあるといわれている大ふぐりを蔽
いもせず眼を」怒らしていた。 「その噂、どこで耳にした。うかつなことを申すと許さぬぞ」 「はい。それがしもこの噂、ひびくところの大きさを考えて、一族の者にも口外はつつしみました」 「その事じゃ。策謀自慢の信玄、これによってわれらが士気をそげると計算するか、あるいは織田どのを油断させられると考えたら何を触れさせるかわからない人じゃ。が、・・・・そち、わざわざそれを申しに来るには、何か信じられる節があるのであろう。噂の出所を申して見よ」 「はい・・・」 三左衛門はまぶしそうに家康の臍
のあたりから視線をあげて、 「それがし、籠城中に、何とぞして信玄公を討ち取る手だてはないものかと苦心いたしました」 「ふーむ、それで」 「甲斐の軍の強さ
── と、申しましても、これはかかって信玄公お一人の力、これを倒すが根を断つことと・・・・」 「くどい! 軍略の釈義はよせ、噂の出所を訊いているのだ」 「恐れながら三左もそれを申し上げているのでござりまする。籠城の城内に伊勢山田の生まれの者にて、村松芳休という笛の名手がござりました」 「その笛の上手が、武田方から訊き出したと言うのか」 「まず、お聞き下さりませ。その者が夜ごと、戦の後で吹く笛を、敵も味方も聞きほれたと思し召せ。三左はそれに眼をつけました。信玄公も笛をなさると聞きましたゆえ、わざと本陣へ聞こえる位置へ芳休を誘い、同じ場所で、同じ時刻に毎夜吹かせました」 「なるほど、それは面白い」 「好きな道は格別のものゆえ、必ず信玄公も聞きほれるに違いない。毎夜いずれの位置にて聞かれるか・・・・それが三左の狙いでございました。すると、信玄公の輿が鳳来寺へしりぞく前々日でござりまする。本陣裏手の段丘に、小さな紙片のついた竿が一本残っておりました」 家康は裸を忘れて、じっと三左を見つめつづけた。 「その竿は、それがしの心にピーンと反応するものがあり、ここぞ信玄公の床几の場所と、鉄砲を城内の松の枝にくくりつけ、狙いをつけておきました」 「・・・・・・・」 「このことはむろん芳休には内証にて、その夜も同じく吹かせながら、技、神に入りたるところで鉄砲を射ちはなしてどざりまする」 「・・・・・・・」 「すると武田の陣内には、時ならぬ騒ぎが持ち上がり、右往左往するさま、手に取るごとく、その翌々日、信玄公の輿は鳳来寺へ」 そこまで黙って聞いていた家康は、とつぜん大きく一喝した。 「たわけ者、控えッ!」 |