人質換えは早急に行われた。 どちらも二千にあまる軍勢にまもられて、広瀬川の河原にやって来た。 城内へはすでに山県昌景が入っているのだし、もし信玄に策謀があるとすれば、武田の本隊はただちに動き出すはずであった。 万一に備えて家康は、浜松で雇い入れた伊賀衆を、八方へ伏せて敵状を探らせた。 と、人質換えが済むと間もなく、信玄の本陣から長篠の方向めざして輿
が担ぎ出されたという情報が入って来た。 いや、つづいて入って来た知らせでは、その輿は一つではなくて、三つであり長篠城へ入らずに、さらにその北方の鳳来寺
めざしているという・・・・ もしその三つの輿の中に、ほんものの信玄がいるとすれば、これは明らかに退却ではないか。 (何のために退却する必要があるのか?) 「油断は出来ぬぞ」 家康は旗下衆をたしなめて、いよいよ警戒をきびしくした。 退却と見せかけて家康を浜松城に引き上げさせ、矛
を転じて吉田を襲う手はあった。 と、案のごとく、野田城にとどまると思っていた山県昌景の一隊が、しきりに出撃の準備にかかっているらしい。 人質換えの済んだ翌々日だった。 「お館さまに、内々で申し上げたいことがござりまする」 松平与一郎の下で野田城にこもっていた鳥居三左衛門が、旗本へ一族の鳥居元忠をたずねて来た。 「何だ三左、籠城
の苦心談でもお話しようというのか」 「それが少し多聞をはばかることで」 「一族のおれにもか」 「はい、お館さまに、内々でお取次ぎ願われますまいか」 「妙な男だ。よし計らってやろう」 家康は、じっと陣中で具足も取らずに寝起きしていたので、しきりに体がムズ痒かった。湯をわかさせ、自分で体を拭きながら、小姓に縫
い目の寄生虫を探させているところであった。 「申し上げます。野田城から立ち戻った三左が何か内々で言上したいことがあると申して来ていますが」 元忠が家康の下着の汚れを小姓の肩越しにのぞきこんでそういうと、 「後にせい」
と、戸板のかげで家康はこたえた。 「いま、ふぐりの垢をおとしているところじゃ」 「三左に落とさせたらよろしゅうございましょう。この元忠にも言えぬこと、内々でと申しています」 「なに、その方にも言えぬこと・・・・?」 「三左、ちょうどよい、戸板のかげで申し上げろ」 家康より年上の元忠はそういうとそのまま三左衛門を残して出て行った。 三左衛門は、おそるおそる戸板のかげに入っていった。 「無礼な男だ。何だ用は?」 「はい、それが・・・・」 三左衛門は家康の裸身から眼をそらしながら、 「敵の大将信玄さま、陣中にお果てなされたという噂
でござりまするが」 「なに!」 家康の声が思わずハッとうわずった。 |