〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/17 (金) 運 命 星 座 (十一)

二俣城では天竜川の井楼せいろう の下にいかだ を流しかけられて水を乾されたのだが、こんどは金堀人足に地下へ濠をうがたせて、井戸の水脈を断つという・・・・
窮することのない信玄の戦法に家康はゾーッと肌の粟立つ想いであった。
「信玄公はご念の入ったことをするの」
「はい。それで菅沼新八郎と松平与一郎さま両人の生命に代えて、籠城の諸士が助命を能満寺のうまんじ の僧をもって申し入れました」
「いつのことだ」
「十一日のことでござりまする」
「してその後は?」
「信玄公はこれを許され、ご両人を城内の二の丸に押し込めて、それから言葉を尽くして甲府への随身をすすめました」
「それでついに降ったと申すのか」
使者は半白の眉毛の下でかすかに笑った。
「いっかな降伏いたされませぬ。毅然きぜん として首討てと仰せられる。そこでわららが主人菅沼伊豆と作手の奥平監物入道、田峰の菅沼刑部の三人にて、信玄公に生命乞いをいたしました」
「なるほど・・・・」
「いかにすすめても志を変えぬ二将、この二将の生命と、山家三方より浜松へ差し出しおきました人質とをお換え下さるようにと」
家康はフフフと、思わず笑ってしまった。
その人質が、今度の戦で必ず物言う時があろうと、密かにそれは浜松を出発させてあったのだ。
「すると、信玄公はそれを許され、その方を使者として人質換えを申し越されたのか」
「ご賢察のとおりにござりまする」
「ならぬと言ったら何とする?」
家康がそういうと相手の顔色は、また微かに変わったようだった。
(何かあった!)
と、家康は思った。
「その時には私めは笑って腹切るばかりでござりまする」
「笑って腹切ると、趣旨しゅし が立たぬぞ。それは誰への申し訳じゃ」
「幽閉されているお二方へ一分が立ちませぬ」
「二人に会って来たのか」
「はい、お二人とも信玄公のお情けに落涙してござりました。お館は信玄公の心を動かすほど毅然と戦って来られた二将をお捨てなされまするか」
「まだ捨てるとは申しておらぬ」
「私めからもお願い申しまする。この儀よくご勘考かんこう 下さりまするよう。わけても松平与一郎さまは、お館さま六歳にて駿府へ差し送られまするときからのご近習とうけたまわっておりまする」
家康はわざと大きく顔をしかめた。
「出すぎた口上。信玄公はわれらがためには表裏あるお方ゆえ、われらはこのまま手勢を引き連れ、人質を警護しながら広瀬川の河原におもむく。それでよくば承知しよう」
使者はおだやかに顔を垂れた。
「生命に賭けて、そのお申し出の通るよう信玄公に言上ごんじょう いたしまする」
「よし、では即刻に計らおう。元忠、使者を途中まで送ってやれ」
そして、二人が出て行くと、家康はまた小首をかしげて、コトリコトリと床几のまわりを歩きだした。
(どうも腑に落ちぬ・・・・)

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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