「敵か味方か?」 と、鳥居元忠も月光の中に立って小手をかざした。 「おかしい。城のあたりはひっそりと静まっているが」 と、康政だった。 大久保忠世も小首をかしげて、陣幕の中へ入って来た。 「今の音は大筒
でござりまするな」 家康は答える代わりに、 「さわぐな」 とかるく言った。 「鉄砲一発、あとにつづく音もない。何ほどのこともなかろう」 「が、何かの合図かも知れませぬ。まさか落城と知って夜襲をかけるはずもなし・・・・」 考え深い康政はつかつかと外へ出て行って物見を呼んでいるようだった。 はじめの言葉はわからなかったが、 「・・・・見て参れ」
という声と 「ハッ」 と答えて山を駆け下る気配とがわかった。 その夜はそのまま過ぎた。 と、翌朝になって物見はまずまっ先に、山県昌景の入場を伝え、さらに鳥居元忠が、信玄のもとから家康の陣中へ使者の参着を伝えて来た。 「なに、使者が参ったと?」 家康はしばらくじっと考えていったあとで、 「誰が参った?」 と、元忠に訊ねた。 「長篠の菅沼伊豆が家臣、追い返しましょうか」 元忠がそう言ったのは、信玄がこちらの窮状を見抜いていて、降伏をすすめに来たと思ったかららしい。 家康はまたしばらくじっと虚空を見つめていた。 (今さら何の使者であろう?) 信玄ほどの者が、改めて降伏をすすめて来るほど味方に強味のない戦・・・・ 「とにかく会おう。通せ」 「通した後で腹を立てられますな」 「斬るのはいつでも斬れる。とにかく通せ」 やがて使者は予期した以上に鄭重
なもの腰で陣幕の中へやって来た。 菅沼伊豆の一族で、同苗
満信 という六十あまりの老人だった。 「私が使者に立ちましたは、山家三方より信玄公に申し入れ、信玄公より改めてのお指図にござりまする」 家康はわざとそれにかかわりのないようなことを言った。 「信玄公には持病がおありだとのう」 相手の顔色がかすかに変わったように思えた。 「胸が悪くて、ときどき血を吐くと聞いているが、長滞在で弱られぬか」 「私めはお側にないので、その辺のことは存じませぬ。ただ、このたびの使者の口上、申し渡されまするときには、しごく壮健
に相見えました」 「して使者の口上は?」 「城内とのご連絡なく、細かい事情をご存じないと存じまするゆえ、順を追って申し述べまする」 「菅原新八郎が降ったというのであろうが」 「はい。しかしこれは、信玄公甲府より金人足を呼び寄せまして、城内の井戸にいっさいの水の湧かないよう計らいましたゆえ、やむない仕儀とぞんじまする」 「なに、金堀を呼んで井戸を乾したと申すのか」 流石の家康も唖然
として使者の顔を見直した。 |