〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/16 (木) 運 命 星 座 (七)

信玄の仮の屋の裏はかなり広い段丘になっていた。ところどころに木の影が黒くおちている。春の風は野田城の裾をめぐってこの丘へ吹き上げた。そのために、ときどき城内の人声までをはっきりと運んで来る。
それが今宵は風もないが、人声もなかった。森閑しんかん と静まり返った月光の底から笛の音だけが嫋々じょうじょう とわいて来た。
この笛は今宵だけのことではなかった。もう二十日あまりにもなるだろうか。双方の対陣が長びくと、毎夜のように夕餉の後で聞こえて来た。
夜が明けると戦い、日が落ちると戈をおさめて、吹く者も、聽く者も、戦旅の哀れさをしみじみと味わうのだった。
信玄もいつからかその笛の音に耳を傾けるようになっていた。
「── 城の中にも風流を解する者がいると見える。なかなかの名手じゃ」
そう言われて、旗本の一人がその名を矢文でたずねると、伊勢山田の者で村松芳休という答え文があった。
しかし、その笛も、今宵はもう聞けまいと思っていたのに、いつもの時刻に同じ場所から流れてきた。
この分では落城と決まって、すでに城内の人心は定まるところへ定まったのかもしれない。
お側の者が、いつもの場所に床几を据えると、
「城の内では、これを聞いて、みな泣いていようの」
信玄は、そこが一番笛の音のよく聞こえるしい の木かげに腰をおろして、しかしすぐに立ち上がった。
「これ床几をもそっと左へ移せ」
「は?」
「ここで毎晩、われらが笛を聞くを、城内の者が感づいているやも知れぬ。床几を移せ」
「はッ」 と、答えて、すぐに近侍は言われるままに床几を移した。いつもの椎の木から四、五間はなれて、そこにはまだ稚い杉が一本立っていた。
「総じて戦には油断は禁物。わが聞く場所を感づいていた者があり、そこへ昼間のうちから狙いをつけておかれて鉄砲でも打ち込まれては生命を落とす。今宵かぎりゆえ、みなもよく用心するように」
「はッ」
お側の者は、陣太刀をささげた小姓一人を残して、この偉大なる主君の興をそぐまいと、うしろと、右と左と三方にわかれて月光の中へかくれた。
信玄は膝に軍扇を立てて、うっとりと眼を閉じた。
月はいよいよ冴えを増し、山も谷も木々も城も、今宵限りの美妙な調べに聞きほれているようだった。
おそらく芳休は、みずからも双眸に露をわかせて吹いているのではあるまいか。
信玄の胸のうちに、十三歳の初陣から五十二歳の今日に至る人生の、もののあわれがしみじみと去来した。
月がかげった。
あるいは笛が雲を呼んだのかもしれない。
と、その瞬間にダダーンとあたりの谷と山と川と大地に、百目玉のとどろきがこだました。
「あっ!」
すぐさっき、一度床几を据えさせた椎の木のあたりであやしい悲鳴を耳にして、信玄ははじかれたように床几を立った。

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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