床几を立った瞬間に、信玄はむらむらッと腹が立った。動かざること山のごとく・・・・たとえ百雷が落ちかかっても、愕
くことのない心。その心を鍛え出そうとし、みずからも鍛えだしたつもりの信玄だった。 川中島の本陣へ謙信に斬り込まれた時でさえ、彼は床几を立たなかった。それが今宵は、鉄砲を打ちかかる者があるかも知れぬと計算し、きちんとそれに備えていながら、思わず腰を浮かしてしまった。 (なんという未熟さぞ!) われを叱ってふたたび床几に掛け直そうとして、信玄の巨躯はよろよろッと前へのめった。 右半身・・・・というよりも右の腰から足へかけてツーンとはげしいしびれが走り、ガクンと膝が二つに折れた。 信玄は狼狽した。そのままのめってゆく上体を右手で支えようとしてハッとなった。 右手もまた感覚をなくしている。信玄は後頭部に異様な鈍痛をおぼえながら、右頬をそのまま地べたへ突いていった。 小姓が太刀を投げ出して、甲高い声で信玄に走りよった。 「方々、お館さまが、鉄砲に・・・・鉄砲に当たりました」 「たわけ、何をうろたえているのだ。鉄砲に当たったのは予ではない。誰か警護の者じゃ、見て参れ」 言おうとして、信玄の歯はガチガチ鳴ったが、それは言葉にならなかった。 唇が痺れてだらだらとよだれの流れるのがわかる。信玄は左手をついて立とうとあせった。が、右半身が地べたへ根が生えたように重く、あせると急に胸もとへ嘔吐
がこみあげた。 グワッ! 何か吐いた。食べ物のようでもあり黒い血の塊りでもあるような、生ぬるい感触がまだ生きている左の頬へ感じられた。 (とうとう・・・・) と、信玄は思った。もはや自分で自分の発病を承認するよりほかなかった。 周到に積み上げた上洛戦。今川義元の失敗にかんがみて、あせらず、急がず、用心に用心を重ねて、戦い勝って来た壮大な雄図が、いま目の前ではげしく揺れてゆくのを感じた。 月光に光を奪われて消えて行く星の運命が、目の前にいる家康や信長よりも先に、信玄自身を呑み去ろうというのだろうか。 (生きねばならぬ!
死ぬものかッ!) 「さわぐなッ」 また信玄はどなったが、それも言葉にはならなかった。 「さわぐと敵にさとられる。静まれ! 静まらぬかッ」 その言葉にならぬ声はいよいよ駆け寄って来た警固の者を狼狽させた、 「お館が撃たれた!
すぐに若君へお知らせ申せ」 「医者を呼べ!医者を」 「その前に、早く陣屋へお運び申せ」 月光の下で黒い影がみだれた糸のようにもつれ出した。 笛だけはいぜんとして虚空にむせび、虚空にとけていっているのに、もはやこのあたりにはそれに聞き入っている者は一人もない。 「お館が討たれたぞ」 「あの笛は敵の計略だったのだぞ」 そんな声の中で、四郎勝頼はじめ、各重臣の陣屋へ、狂ったように急使が馬を飛ばしていった。
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