二度の発砲と鳴り続ける太鼓とで、武田方は城の内と外から挟撃されると判断した。ふしぎなどよめきが穴山勢から山県勢、小山田勢へと伝わって、ついにそのまま引き揚げと決まった。 大久保忠世も、石川、天野も深追いはしなかったが、最後のねばりで勝ちほこった武田勢の肝を寒からしめたことは事実らしい。 家康は広間の床几で武田勢引き揚げの報告を受けると、全身に溶けそうな疲労を感じた。 決して巧みな戦いではなかった。いやむしろ、評するに言葉もないほど惨めな敗戦だった。が、その敗戦を経験した自分が、いまここにこうして生きていて、しかも敵の進出を食い止め得たのだ。 むろんそれは家康自身の力ではなかった。底を貫
く何ものかの見えない力に合掌したい想いだった。 お台所から武装した小者が栗とこんぶと椀一つだけの膳をはこびだした。 が、家康はまだそれを配らせず、次々に戻って来る者を睨むようにして見やっていた。 さすがの鳥居元忠も、弟を討たれて眼を血走らせていたし、多くの郎党を失った本多平八郎忠勝も疲労のかげをいたましく全身に刻み付けていた。 鈴木久三郎は家康の采配を持って来て、 「途中で拾いました」
と、差し出した。 「そちに遣わす」 家康は投げるように言い捨てて天野康景に向き直った。 「忠次はまだ見えぬが」 「はい、酒井さまはお台所にて傷の手当て中にござりまする」 「深傷
か、きずは?」 「矢四筋、酒で洗うてこざりました」 そういえば誰も彼も手傷を受けていない者は一人もない。 「こうして集まった図は、百鬼夜行、見苦しい面ばかりじゃ!」 家康がそういうと、みんなはじめてどっと笑った。 大久保忠世が戻ってくると、膳がみんなに配られた。熱い一椀のにごり酒。 それを黙ってすすりだすと、改めてみんなの瞳に涙が浮かんだ。 生死の間をさ迷ってきた彼らの眼には、家康だけがいよいよ巨大な石のように大きく見える。 (あるいは恐怖を知らぬではなかろうか・・・・?) 鳥居元忠が不意に盃を上げて、 「この戦、よく考えると勝ちました。おめでとうござりまする」 と、吼えるように言った。 「おう、負けているものか。八千で三万の大軍を追い返しているではないか」 忠世がそれに応じたとき、 「強がるな」
と家康は言った。 「負けたのじゃ。が、負けても屈しなかった・・・・そうであった。敗! おめでとうござりまする」 本多平八郎はそういうと、よろよろと立ち上がって舞い出した。 本人は鍾馗
か何かのつもりらしいが、それは傷ついた闘犬ののたうつ姿を連想させる。 家康は笑いもせずにじっとそれを見ていた。 |