〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/15 (水) 底 を 貫 く (一)

家康は城門をどうしてくぐったのかわからなかった。
気がついたときには大手をさけて総懸そうが かり口から瘠狗せつく の姿で城内に立っていた。
「お館、ご城内でござりまするぞ。馬を降りられませ」
言われて気づくと、大久保忠世が、きびしい眼をして自分を睨んでいる。
家康は言われるままに馬から降りた。
城内はシーンとしていて、眼に見える樹々はいっぱい雪をかぶっていた。
「なぜ歩かせられませぬ」
また忠世に叱られた。が、地上へ降り立った瞬間の家康は、自分が生きているのとも死んでいるのとも決定しかねる虚脱きょだつ ぶりであった。
それほど、この一戦に、家康はすべてを賭けつくして戦って来たのである。
「お館!」 また忠世の手が家康の肩をたたいた。そしてそのあとで大口あいて笑い出した。
「呆れたお人じゃな、お館は」
「な・・・・なにッ」
「見られませ、馬のくら つぼにせつなぐそ をもらしてござる。ああ、臭や!」
「なに、予がせつな糞を・・・・」
家康ははじめてカーッと眼を開いた。よろめきながら鞍にすがってそれを撫でると、
「たわけめ! 腰の焼き味噌じゃ」
そういうと、忠世の顔を平手で張った。パーンと音がした。
その音に応えるように家康の姿勢はピーンと活気を取り戻した。
「植村正勝、天野康景は大手を守れ。元忠!」
「はい」
「そちは玄関口」
これも歩いて追いついた鳥居元忠に命じると、
「城門は開いておけ。戻る者の目当てになるよう、あるだけの薪を積んでかがり火を焚け」
たたみかけるように命じてそのままよろよろッと玄関の式台に尻餅ついた。
忠世が走り寄って履物をぬがせると、
「糞をもらしたなどと、たわけめが」
さっさと大広間へ通っていって、
「湯づけを持てッ」
おろおろしている久野という腰元にわめきかけた。さっそく飯櫃めしびつ と椀がはこばれた。
一膳は黙って食べた。二膳目を差し出すときに、
「かがり火は焚いてあるな」
じっと家康を見つめている忠世に言って、
らち もない戦をした。代わりを」
忠世の眼から不意に涙がほとぼしった。生色を取り戻した家康。やはり凡庸ぼんよう な主君ではなかった。そう思うと、彼は、彼の思いあまりに脱糞の奇智が無駄でなかったことを知ってたまらなくなったのだ。
「代わりを持て」
家康は三椀、湯づけをすすりこむと、
「よいか。予はしばらく休む。かがり火を忘れるな」
言うなり、ごろりとその場へ横になった。
勝ちに乗じた武田勢は、味方を追って城下まで迫ったらしい。吹雪にまじってときの声と矢声がだんだん近くなる。
と、それらの雑音の上に、家康のいびきがあらく加わった。
疲れ切った肉体からは、おどろくほど大きないびきが出るものだった。

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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