「しんがりは忠真か」 家康はかすれた声でわめくように忠世に言った。 「仰せのとおり」
と忠世が答えると、 「心もとない。見て参る」 「お館!」 忠世は眼を怒らして家康の前に立ちふさがった。雪あかりで地上に動く人の影だけはかすかに見えたが、犀ヶ崖ね落ち込んだ者も少なくない。 「いつものお館とも覚えませぬ。お供いたしまする。このままお引き揚げのほど」 「ならぬ!」 と家康はまたわめいた。わめきながら、何か自分がおかしくもあり哀れでもあった。 黒い影が三つ駆け出そうとする家康の前に立ちふさがった。 「下郎!」
と、また家康はわめいて、その一人を槍にかけた。大久保忠世はそれよりも先に二つの影を血祭りにあげていた。 「お館! おいそぎなされませ」 「ならぬ!」 それは自分の運命がもう決まったようでもあり、それだけに、その前から一歩もひかぬ意怙地
さのようでもあった。 また崖ぎわから黒い影が二つ追いすがった。 「おお、お館ではござりませぬか」 馬廻りにいた忠世の子の大久保忠隣
と内藤正成が、いずれも馬を失って徒歩
で駆けつけたのであった。 鎧も兜も雪にまみれて、とこどき黒く見えるのは返り血であろう。 「お館・・・・本多忠真どの討ち死になされてござりまする」 「なに、忠真も死んだと・・・・して、しんがりは誰がおるぞ」 「内藤信成にござりまする。殿!
いまのうちに早く」 家康は一瞬凝然
と立ったまま動かなかった。いよいよ一歩もひけないものが胸もとにこみあがら。 (これまでの運だったのか?) そう思うと、ふと全身が熱くなった。 「忠隣、正成、返り合わせ!信成を殺すな」 「お館!」
と、また忠隣が叫んだ。 「お館はなんというバカ大将じゃ。忠真どのも信成どのも、お館をご無事にお城へお返ししたいばかりとお分かりなされませぬか」 「忠隣!
言葉が過ぎようぞ」 と、父の忠世が叱りつけた。 「お館、いざ城内へ」 忠世が轡
をとったとき、ドッと右手の灌木が声をあげて動いて来た。武田方の馬場と小幡の伏勢だった。 「徳川どの引き返されよ。敵にうしろを見せられるか」 「なにッ?」 家康はまたうしろを振り返った。と、その瞬間にダーンと一発銃声があたりにひびいた。弾丸は馬の平首をかすめて崖にあたった。 馬は高くいなないて棒立ちになり、それを合図に雪の中へ、城伊庵
の新手から雨のような矢がまじってきた。 もはや馬廻りの者も近習もむらがる敵とひとつになって識別できない。家康は槍を捨てて太刀を抜いた。そして馬から飛び降りようとしたときに、 「お館!
ご免」 そう叫んで家康の馬に飛びついて来た者がある。家康はそれが誰かわからなかった。 |