「誰だッ」 と闇
をすかして、自分の声がもう殆ど出なくなっているのに気づいた。 「だ・・・・だ・・・・れだ。うぬは」 「夏目
正吉 にござりまする。城内よりお迎えに参上しました」 「うぬ。留守居が出すぎたことを」 「お館!
二十五騎で駆けつけました。ここで正吉必ず敵をさえぎりまする。早くご帰城なされませ」」 「ならぬ! この乱戦に、予ひとり生きて戻れると思うておるか。たわけめ」 「な・・・・なに」 正吉はカーッと大きく眼をむくと、 「申し上げようもないお心根、お館とはそのような葉武者
でござったのか」 「なに、予を葉武者だと」 「葉武者じゃ!」 夏目正吉は体をふるわして浴びせかけた。 「血気にはやって全軍の指揮を忘れる。そてが葉武者でないというのか」 「うぬッ!・・・・」 家康は身をもんで何かわめいたが、それは声にならなかった。 「もはや遠慮はせぬ。それがしはお館の名を名乗る。それッ」 そういうと馬の首を乱暴に浜松城の方へ向けて、正吉は手にした槍でその尻を突きまくった。 馬は狂奔
した。崖添いの雪道をころがるように走り出した。 家康はまた何かわめいているようだったが、つづいて駆け出した畔柳
と大久保親子のために、馬は容赦なく追い立てられた。 夏目正吉は家康の姿が見えなくなると、ひらりと馬に跨
がった。 「徳川三河守家康これにあり、われと思わんものは参り合わせて手柄せよ」 吹雪に声を乗せ、十文字槍をふるって、見る間に敵の二騎を馬から落とした。 「家康が最後の奮戦。ものども続け」 「オーウ」
と、二十五騎はいっせいに敵の中へ斬り込んだ。 そして四半刻ほど経った時には、夏目正吉以下一騎もこの世の人ではなかった。 武田方の追尾は執拗を極めた。その中から、天野康景が家康に追いつき成瀬
小吉 が追いついた。 大久保忠隣は見えなくなって、父の忠世だけはそばを離れなかった。やがて高木九助がこれは味方を励ますために、大きな嘘をわめいて通った。 どこで取って来たのか法師首ひとつ高くささげて、 「敵の大将信玄が首、高木九助が討ち取ったり・・・・」 もはや首も人もよくは見えず、馬も寒さにすくみだした。 命からがらという言葉が、そのままあてはまる惨敗だった。 家康はいちど浜松の八幡社の前の大楠の前に馬を休めてそれから城へ生色もなく辿
り着いた。 疾走する力もなくなった馬。 運命を賭けて惨敗した大将。 高木九助だけがぎっそりと閉ざされた闇の中で大声に叫んでいた。 「敵の大将信玄が首、高木九助が討ち取ったり。お館さまのご帰城ぞ。開門開門!」 吹雪はそうした悲劇の城をまっ白につつんでいた。
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