吹雪はだんだんとひどくなった。 地上も空も灰色に暮れかけている。家康は槍を持たせた小者と共にまっすぐに馬をすすめた。 「退くな。進めッ」 山家三方衆は、ワーッと旗下をとり巻いた。家康はついに槍を取った。ま向かいの吹雪が兜の前立てに粉をあびせたように白くついている。 「お館を討たすな」 「殿を守れ」 大久保忠世と榊原康政が家康の前に立ちふさがった。ドッと武田七手の先陣が崩れ出した。 「今ぞ。蹴散らすは今ぞ!」 家康はあぶみの上に立ち上がったまま馬を煽った。 「殿、危のうございまする。深入りなされまするな」 康政が立ちふさがろうとした時に、家康の馬は矢のように適の中へ駆け入った。 「続けッ」
と、言ったようだったが、その声は風に千切れ、勢いにのまれて武田勢は二つにわかれた。 と、われた前方へまた一枚の魚鱗がこつぜんと現れる。白地に黒と、黒地に白の大文字の馬印は武田四郎勝頼にまぎれもなかった。 「さすがに!」 家康は思わず馬上で賛嘆した。どこが敗れてもそのために総勢の崩れるような備えではない。 勝頼約四千と見てとって、家康は馬を返そうと手綱をしめた。と、その時だった。いったん割れた山県勢がぴたりと退路をふさいで家康に向ってくる。 「しまった!」 右手を見ると、これも退路をたたかれた酒井忠次勢が四散しだしている。 老将信玄が、この機会を逃すはずはなかった。 彼は陣幕の中で、
「甘利 衆
を呼べ」 と言った。 甘利吉晴
が歿してから米倉 丹後
が預かっている甘利衆はそれまで小荷駄係であった。 「丹後、小荷駄を捨てて横槍を入れよ。これで今日の戦は終わった」 「はッ」 丹後が出て行くと間もなくあたりは暗くなった。甘利衆の横槍が武田勢の勝利を決定的なものにした。 「崖ぎわへ追い落としたら、諸将をまとめよ」 ふしぎな混乱のどよめきを聞きながら信玄の命じたときには、もはや、家康の姿はそのあたりに見えなかった。 軍目付の鳥居忠広が、 「殿!
忠広は臆病でござりましたか」 そう言って斬り死にすると、つづいて松平康純
が、若い血で吹雪を染めた。 米沢政信も斬り死にしたし成瀬
正義 も死んだ。およそ三百にあまる屍体をのこして、徳川勢は四散してしまったのだ。 家康はそのころ、犀ヶ崖の近くまで夢中で馬をかって来た。つづいているのは大久保忠世ただ一人。 「お館!
止まられなするな」 と、忠世は言った。 「敵が追いすがってござりまする。あとは本多忠真
がござりますれば、そのままそのまま」 そう言われると家康はわざと馬をとめて後ろを振り返った。眼は血走り、頬はとがって、ゾーッとするほど醜
く、すさんだ表情だった。 |