「申し上げまする」 鳥居四郎左衛門忠広が入っていっても、 「何だ?」 たたきつけるように言っただけで家康は眼も開けなかった。鳥居忠広は家康と共に育った元忠の弟で、剛勇さでは兄にゆずらず、その分別は父の忠吉をほうふつさせた。 「お館!
ひどくご機嫌がわるげに見えまするな」 「よけいなことを申すな。用は?」 「四郎左は軍目付ゆえ、見たままを申しまする。今日の戦は味方に不利・・・・」 「わかっている」 「敵は思いの外の大軍にて、それが十数段に備えをもうけておりまする。いくら破っても、あろからあとから掛かって来て、はてしがなげに見受けまするが」 家康は答えなかった。いぜんとして眼も開けない。が、頬の肉がピクピク癇癪にうごいている。 「お館!
この四郎左の見たところでは、見方が城内に引きあぐれば、信玄は戦わずに通ってゆくと存じまするが」 「たわけ!」 家康の眼はカッと開いた。 「そのようなこと、半年前からわかっておるわ。小賢しいことを申すな」 「お館、四郎左はそれゆえ城内へ引き揚げて、そのまま通せとは申しておりませぬ」 「なんじゃと」 「このまま一戦いたすより、引き揚げると見せかけて、この不利な崖ぎわでの戦を避け、敵が堀田あたりへかかった時に、うしろからドッと一度に襲うてやったらいかがでござりましょう。それとて勝利はおぼつきませぬが、それで十分武士の意地は見せられまする」 「四郎左」 「はい」 「そちはいつから家康の意見番になったのだ」 「べつに・・・・」 「黙れッ!
そちたちの考える道筋を、通らぬうちに采配
する家康と思うておるか、臆病者めッ」 「これはお館のお言葉とも覚えませぬ。この四郎左が、いつ敵に後ろを見せました」 「敵に後ろを見せぬが勇者ではない。滝の大軍を見て予の采配をあやぶむ、その根性が臆病だと言っているのだ。われらが動揺して、織田の援軍が戦えると思うか。腰抜けめ」 四郎左はぐっと口を結んで、怨めしそうに家康を睨み返した。 こんな血気の大将ではなかった。何かに魅入られている
── 四郎左はそう思い、家康は、 (どこまでいっても予の心のわからぬ奴・・・・) その悲しみでじりじりしていた。 考え尽くすことを考え尽くして、天の裁断
を待っている。ここであがいて生き残り、いたずらな他人の意志で無残な戦を繰り返させられる一国一城の主より、むしろわれを死なしめたまえと祈っている。そうした心境をみんなにわかれと言うのは無理かも知れない。が、家康は、すでにここで運命と勝負せずにいられないほど大きく育っていたのだとも言える。 「お館!」 「何だ」 「ご決心は動かぬと見てとりました。それがしが臆病かどうか、よくご覧下され。必ずお心に思い当たることがござりましょう」 忠広は低い声に力を込めてそう言うと、すっと立って幕の外へ出て行った。 |