〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/13 (月) 三 方 ヶ 原 (七)

きびしい寒気のうちに時は経った。
敵の大軍は粛々と冬の風を背にして進んで来る。あせらず急がず、その備えはふしぎな重量感でひたひたと三方ヶ原を圧してきた。
大久保忠世の弟忠佐ただすけ が柴田康忠やすさだ とともに家康の前へやって来て、
「殿! もはや双方の距離は半里がほどにせまりました。掛かりまする」
と、はやり立って来たのはひる過ぎだった。
「おう」
と、家康はこたえた。
二人は武者震いして幕の外へかけ出し、
「ものども!・・・・」
叫ぼうとしたところを、渡辺半蔵に、
「待てッ!」
と、つよく押えられた。
「この期に及んで何を待つのだ」
「待てッ」 半蔵は同じことを繰り返した。
「殿は相変わらず気負っておられるのか」
「戦に気負わぬ大将があるものか」
「ふしぎなことがあるものだ」
半蔵は声をおとし、首を傾けて、
「よく見てみろ、敵の厚さは鉄壁に見えるのに、味方は薄く透いて見える。これで殿が思いとどまらぬとは・・・・」
「半蔵、またしてもおぬし士気をそぐのか」
「士気の問題ではない。おれは殿を案じるのだ。もう一度だけ殿にご意見してみようと思うが無駄か忠佐・・・・」
その声は幕の中の家康の耳に入ったらしい。
「無駄じゃぞ半蔵」
すーっと幕の外へ出て来て、家康はゆっくりと空を見上げた。ひょうひょうと旗差し物に鳴る風に雪の匂いがまじっている。
「雪になるぞ。勝敗は天に任せて合戦せよ」
「はッ」
半蔵が肩膝ついて何か言おうとすると、
「そちも四郎左とおなじに腰がぬけたか」
半蔵は口惜しそうに家康を睨んで、これも決然と立っていった。
「忠佐」
「はッ」
「このままでは戦にならぬ。そちと柴田で先手さきて へ進み、石川数正が陣の前からまず鉄砲をうちかけろ」
「はッ」
「それを合図に、予も旗本をひきいて進んでゆく。死に物狂いじゃ。よいかッ」
「はッ」
風はだんだん勢いを増して、空は日暮れのように暗くなった。
その中を大久保、柴田が二百人ほどの足軽を引き連れて、まずまっ先に旗下を出発した。そうなると諸将ももはや動かざるを得なくなる。
ダダダーン! と、合図の鉄砲は、左翼先手の石川数正が軍から、武田先手小山田信茂の陣にうちかけられた。
ワーッと彼我ひが の間にときの声があがり、貝の音が風を圧してとどろき出した。
武田菱と三ツ葉葵の旗差し物が、双方から糸ひくように寄ってゆく。
あるかないかの粉雪が、風にのってちらつきだした。
家康はみずからも馬に乗って、しきりに左右を眺めている。
敵からも平手汎秀の一隊に仕掛けて来た者があるようだった。
寒風に競い立った馬のいななきが三方ヶ原にあふれてゆく・・・・

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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