きびしい寒気のうちに時は経った。 敵の大軍は粛々と冬の風を背にして進んで来る。あせらず急がず、その備えはふしぎな重量感でひたひたと三方ヶ原を圧してきた。 大久保忠世の弟忠佐
が柴田康忠 とともに家康の前へやって来て、 「殿!
もはや双方の距離は半里がほどにせまりました。掛かりまする」 と、はやり立って来たのはひる過ぎだった。 「おう」 と、家康はこたえた。 二人は武者震いして幕の外へかけ出し、 「ものども!・・・・」 叫ぼうとしたところを、渡辺半蔵に、 「待てッ!」 と、つよく押えられた。 「この期に及んで何を待つのだ」 「待てッ」
半蔵は同じことを繰り返した。 「殿は相変わらず気負っておられるのか」 「戦に気負わぬ大将があるものか」 「ふしぎなことがあるものだ」 半蔵は声をおとし、首を傾けて、 「よく見てみろ、敵の厚さは鉄壁に見えるのに、味方は薄く透いて見える。これで殿が思いとどまらぬとは・・・・」 「半蔵、またしてもおぬし士気をそぐのか」 「士気の問題ではない。おれは殿を案じるのだ。もう一度だけ殿にご意見してみようと思うが無駄か忠佐・・・・」 その声は幕の中の家康の耳に入ったらしい。 「無駄じゃぞ半蔵」 すーっと幕の外へ出て来て、家康はゆっくりと空を見上げた。ひょうひょうと旗差し物に鳴る風に雪の匂いがまじっている。
「雪になるぞ。勝敗は天に任せて合戦せよ」 「はッ」 半蔵が肩膝ついて何か言おうとすると、 「そちも四郎左とおなじに腰がぬけたか」 半蔵は口惜しそうに家康を睨んで、これも決然と立っていった。 「忠佐」 「はッ」 「このままでは戦にならぬ。そちと柴田で先手
へ進み、石川数正が陣の前からまず鉄砲をうちかけろ」 「はッ」 「それを合図に、予も旗本をひきいて進んでゆく。死に物狂いじゃ。よいかッ」 「はッ」 風はだんだん勢いを増して、空は日暮れのように暗くなった。 その中を大久保、柴田が二百人ほどの足軽を引き連れて、まずまっ先に旗下を出発した。そうなると諸将ももはや動かざるを得なくなる。 ダダダーン!
と、合図の鉄砲は、左翼先手の石川数正が軍から、武田先手小山田信茂の陣にうちかけられた。 ワーッと彼我
の間にときの声があがり、貝の音が風を圧してとどろき出した。 武田菱と三ツ葉葵の旗差し物が、双方から糸ひくように寄ってゆく。 あるかないかの粉雪が、風にのってちらつきだした。 家康はみずからも馬に乗って、しきりに左右を眺めている。 敵からも平手汎秀の一隊に仕掛けて来た者があるようだった。 寒風に競い立った馬のいななきが三方ヶ原にあふれてゆく・・・・ |