〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/11 (土) 三 方 ヶ 原 (五)

家康の横一線の備えに対して、信玄は、どの一隊が敗れても、断じて本陣へは敵を寄せつけぬ縦隊魚鱗の備えであった。
先鋒は小田山信茂、そのうしろには山県昌景、左うしろには内藤ないとう 昌豊まさとよ 、その右うしろへ武田勝頼、左うしろには小幡おばた 信貞のぶさだ 、そして信玄の本隊は巨大な予備隊とし、その真正面に馬場信春をおいてある。
これでそのまま押していったら、横一線の鶴翼陣はまたたく間に寸断されるだろう。
信玄は、家康の若さにがっかりしたり喜んだりした。
「ご合戦なされませ」
と、馬場信春もそばから言った。
「わざわざ負けに出て来てくれたものを、避けるにも及びますまい」
「うむ」
信玄は微笑を消さずに、
「しかと勝てるか」 と、意地悪く訊ねた。
春信にというよりもわが子勝頼の答えが聞いてみたかったのであろう。
「勝てまする。これを戦わねば冥利みょうり につきまする!」
あんのごとく勝頼が乗り出した。
「勝てる証拠は?」
「短刀で薄絹をやぶると同じでござりまする。単衣ひとえ で炭火はつつめませぬ」
それでも信玄は、すぐ戦おうとは言わなかった。
「よし、では室賀むろが 信俊のぶとし を呼べ」
信俊は信玄の旗本物見番の中でも慎重第一の男であった。
信俊が呼ばれて来ると、
「その方、上原能登を引き連れて、もう一度物見ものみ して参れ。そしてその間に諸隊は朝の食事をするがよい。戦うにしても進むにしても、冬は腹が第一じゃぞ」
朝霧はまだ濃かった。むろんここで炊爨すいさん は出来ない。が、全軍がすばやく腹ごしらえを済ましたところへ、室賀信俊は戻って来た。
「上原能登の申すとおりでござりまする。ご一戦を急がれたがよいと心得まする」
「ほほう、その方までがそう申すか。では勝頼、一戦やるかの」
「ご下知を仰ぎとう」
「よし、では小山田信茂からかかってゆけ、無理するな。疲れたらすぐにさがって入れ代わり、入れ代わりかかってゆけ」
「はッ」 と答えて、集まった諸将はいっせいにわが隊へ馬を走らせた。
信玄は、敵が横一線の構えと知った時から戦うつもりであった。が、それをごこまでも慎重に決断を渋るかに見せたのは一つは勝頼への訓えであり、一つは相手の窮鼠きゅうそ と化するのを軽く視るなという、全軍へのいまし めでもあった。
こうして、巨大な魚鱗陣は再び動きだした。そしてこれを迎える徳川方では軍目付いくさめつけ の鳥居四郎左衛門中広が、意を決して、最後の諌言かんげん に家康を訪れたところであった。
家康はそのとき、床几の前へ焚き火をたかせ、傲然ごうぜん と腕組んで眼を閉じていた。
外の気温はジリジリと下がっていった。
今日いちにち陰鬱いんうつ な陽の目の見られぬ天候らしい。陣幕の裾をくぐって霧の動きがよくわかった。

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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