〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/10 (金) 三 方 ヶ 原 (二)

浜松城の正面拠点。二俣城が陥ちたのは十二月十九日。
二俣城には中根正照、青木吉継よしつぐ 、松平康安こうあん などが守っていたが武田勢の攻撃は執拗しつよう と巧妙をきわめたものだった。
武田勝頼、武田信豊の肉親の大将と、穴山あなやま 梅雪ばいせつ がこれに当たり、信玄はしきりに乗り落とせと命令したらしいが、それではついに落ちず、山県、馬場の進言で、こんどは水の手を絶って来た。
二俣城は城の西を流れる天竜川から高い水矢倉を築き、その中から井戸のように滑車かつしゃ のついたつるべでいちいち飲用水を汲んでいたのである。武田方はそのつるべの降りてくる下にたくさんのいかだ を上流から流しかけて水面を埋め尽くした。
そうなってはいかに勇猛な城兵も戦うすべはなかった・・・・
家康はこの城を落とすまいとして、みずから二千五百の兵を率いて神増村まで出て行ったが、落城と知って、そのまま浜松に引っ返した。
もはや浜松城はさえぎるものとてもない敵の正面にさらされている。
翌々二十一日だった。
浜松城の家康の前へは最後の軍議を決するために、続々と諸将がつめかけていた。
酒井忠次、小笠原長忠、松平家忠、本多忠勝、石川数正をはじめとして、織田の三将も会席した。
正直に言って決して士気は上がっていなかった。いちばん最初の一言坂の戦では、本多忠勝の采配で一兵も損せずに退却し、
「今日の振る舞いは平八と思われず、八幡大菩薩の化身のようだ。後の大戦を控えていたずらに兵を失うのは愚の骨頂」
そう言って家康は褒めちぎったが、これも勝利には遠い退却なのである。そして、こればかりはと頑張った次の二俣城も落とされたあとなのだから無理もなかった。
それに今朝入って来た諜報によると、いぜんとして信玄は戦う気はないらしいということだった。
あるいは信長の援軍が続々とやって来るという徳川方の流言の効果かも知れなかったが、信玄は刑部ぎょうぶ 中川なかがわ 付近から 伊谷いのや を経て、東三河に向うつもりらしいという。
「織田の援軍中、すでに浜松に到着しあるものは九隊、なお岡崎白須間には続々と行進中の織田勢があるそうじゃ、浜松城を攻囲して一時の勝利を得ても、信長の援軍はきっとわららの疲労に乗ずるであろう。むしろ交戦を避けて前進するがよい」
信玄がそう言っているというのに、こちらから仕掛ける必要があるであろうか?
相手はすでに予定通りに集結して、三万近い大勢力であり、味方は織田勢を加えて一万足らずの人数なのだ。わざわざ戦うのは無謀ではあるまいかという空気は払拭ふつしょく できなかった。
その諸将をずらりと前に並べて、家康は断固だんこ とした声で言った。
「武田勢は、明二十二日、野部を立って天竜川を渡り、大菩薩から三方ヶ原へ上がって来る。これこそ屈強の決戦場、われらはこれをさいがけ の北に出て待ち受ける。ついてはその布陣じゃが」
祐筆のささげる侍帳をとりあげて、まず最初に、酒井忠次の顔に鋭い視線を向けていった。
それはかつての家康ではなく、何かが乗りうつっていると思うよりない猛々しい表情であった。

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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