〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/10 (金) 人 生 岐 路 (七)

運命は人の力で動くや否や?
動かぬものを動かそうとするのでは徒労であり、動くものに手をつけないのでは怠慢だった。
といって、人の動きにつれて動く運命と、運命の動きにつれて動く人生とが確かにある・・・・そう思って来るとうかつに動けぬ迷いがわいた。
どちらも幸運を逃すまいとする欲心からではあったが。
家康はいまその岐路に立って、二つの比重を計ってみたのだ。
運命を絶対と見ればそれは一つの諦めに通じ、自分を絶対と見ればそれははた目に妄動と映ってゆく。
が、たとえ世間の眼にどう映ろうと、人間には自分を絶対と信じて動くよりほかない、ぎりぎりの一線があるようだった。
通れてもよし、通れなくてもよい。
ここでは、わが欲するままを行ってみるのである。
家康に言葉を返せぬきびしさで命じられ、お愛はいまあらゆる努力で、その言葉に従おうとしているらしい。
一見ひどくむごい仕打ちに見えるが、それで迷うている人々の方向は決定してゆくのである。
「お愛、わかったら盃を取らそう。これへ来い」
「はい」
しばらくしてお愛は意を決したように家康の前へ進んだ。家康は盃をほしてお愛にやり、お愛の手がもうさっきほど震えていないのに気がつくと、ニコリと頬をくずして、
「本多の年寄りを呼んで来い」
と、また腰元に命じた。
腰元が本多作左衛門を呼んで来るまで、家康はお愛を見つめつづけた。
こうしているとお愛の怖れているものがよくわかった。
また、身も心も捧げるようになってから、男に死なれるのではないかと恐れているが、本多平八郎ではないが、生死を誰が知るものか。
ふしぎと今度は心がなご んで、しみじみとお愛の美しさを見届け得た。
(酒の味に似ている人生は・・・・)
辛さを味わいつくすとはじめて残る舌の上の甘味。
「ありがたくいただきました」
盃をほしたお愛に、家康はやさしく言った。
「そなたは気だても優しい。みめも佳い。これからは善いことがあるであろう」
「あ・・・・ありかたき仰せ」
「固くなるな。今、年寄りがやって来るが楽な気持ちでいるがよい」
「はい」
本多作左衛門はのそのそと入り口までやって来て、中にお愛のいるのを見るとニヤリと笑った。
「珍しく酒を召し上がられなしたな」
「作左」
「はい」
「予は我慢がまん ならぬ。わが枕をまたがれて黙って通したとあっては末代までの恥辱ちじょく じゃ」
作左衛門はけろりとした表情で家康を見上げて、
「お勇ましい。が、それは何のことでござりまする」
「甲州めが軍勢のことよ」
「なるほど信玄坊主がことで」

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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