〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/10 (金) 人 生 岐 路 (八)

作左衛門はできれば家康に頬かむりをすすめたかった。
彼の経験によれば激してはせ下る奔流ほんりゅう はわきに避けるのがいちばんだった。
大海へそそぐまで奔騰ほんとう しつづける流れはない。いつかそれが緩やかになった頃で、堤も築ける道理であった。
「作左、おぬしに異論はあるまいな」
「信玄坊主がことで」
「そうだ。枕をまたがれて通しては、末代まで腰抜けの名を残す」
「もし依存があると申し上げたらお聞き入れなさる気でござりまするか」
作左衛門がぎろりと上眼で見返すと家康は、
「たわけめ!」 と叱りつけた。
「あったら申せと言ったまでじゃ。決定は予のすることだ」
「仰せ・・・・ありがたく存じまする」
作左衛門は何を想ったか形を正して平伏した。
「今の一語をうけたまわれば、何も申すことはござりませぬ。死ねと仰せられる場所で、それぞれ死んで行きましょう」
家康はそういう作左衛門をじっと睨んで、それからお愛に眼を移した。
「作左め、みんなが死ぬと申す。おかしな奴だ」
お愛は黙っていたが、これも作左の言葉にいっそう何かをかき立てられているらしい。
「予は勝敗の外に立つのだ。生死は神仏に預けておいて、やるべきことはやってゆくのだ」
「殿・・・・」
「なんだ作左」
「作左は殿をもっと腰抜けかと存じていました」
「なに、言葉が過ぎようぞ作左」
「いいや、まことのことは、まことのまま申し上げまする。若いうちに老成されて、生涯を賭けるほどの戦は出来まいと」
「つけつけ かすわ。この年寄り」
「ところがそれはわれらが誤りでござりました。一度に若くおなりなされて、豪気ごうき あたりを払うばかりでござりまする」
そいうとふたたび以前のとぼけた表情にもどって、
「このうえは若返りすぎねばよいが・・・・」
「なに、何と申した作左?」
「いいえ、これは年寄りの取り越し苦労で。若返りすぎて、織田の援兵も来ぬうちにわざわざ危険を求めねばよいがと、思わず愚痴ぐち がこぼれましたので」
家康は顔をしかめて苦笑した。
「うぬも言葉はいつも後で冷水をかけて来る。それほど豪気な予ではないわ」
「どうつかまつりまして。見上げたものでござりまする。このうえは、そのご決意を、下々雑兵まで、きびしく行きわたらせまするよう、お願いしたく存じまする」
家康はうなずいた。
家臣の空気の大勢を、それとなく説いている作左衛門。よほどきびしく、甲州勢は一人もここは通さぬ覚悟とみなに見せなければならぬと思った。
「よしッ、これで決まった!」
家康はきびしい表情で立ち上がると、つかつかと縁に出てきっと夜空を見上げていった。
すでに恐れも惑いもなくなって、外の野分のわき がそのまま心を吹きすぎた。
作左はその家康を見ようとせず、とぼけた表情で、お愛を見やったり天上を見上げたりしている・・・・

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ