〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/09 (木) 人 生 岐 路 (六)

「はっ」
と言って、清員は何か言いたそうにしたが、思い直したように出ていった。
言葉を返せぬ何ものかが、今夜の家康の中にあったからだった。
清員が去ってゆくと、家康は 「注げ」 と言って、また盃をとりあげた。
飯を食べたあとの酒。妙なことを・・・・という面持ちだったが、腰元は言われるままに注いだ。
家康はべつにそれを飲もうとするでもなく、食膳だけを下げさせて脇息きょうそく を引き寄せた。
ようやく日は暮れおちて、ただ一本運ばせた燭台の灯がますぐ天上へほのお をのばしている。
またどこかに虫の声が細く生き残って聞こえていた。
西郷のお愛が清員に伴われてやって来たのはそれから四半とき ほどたってからであった。
「お召しでございましたそうで」
そう言って両手をつくお愛を家康は言葉もなく眺めていった。
二年有半。戦にくれ戦に明けて勝つか負けるかだけを考えて来たあわただしい時間の中で、ふと心に影を落とすのはお愛であったが、それを召し寄せて寵愛ちょうあい するほど心に余裕がなかったのだ。
それには岡崎から絶えず築山どのが、手紙や使いで怨みを言ってくるのもかなり大きくひびいていたが・・・・
今でもお万の方がもし次の子を産んだら、必ず刺し殺してやると言っているそうな。
いわばそのうるささに負けたせいもあって、想い出しながら呼び出さなかったお愛。
そのお愛はおそらく虚を突かれたに違いない。ひどく今夜は落ち着きがなかった。
眼もとの羞恥と家康の心を計りかねたおび えとが、以前よりもずっとお愛を若くしている。肌理きめ のこまかさに燭台の灯が映えるようであった。
「年寄りは帰って休め」
家康はお愛をみつめたままで清員に言った。
「はっ」
と言ったが清員はまだ立ちかねた。
「何をもぞもぞしているぞ。帰って休め」
「はっ、ではお愛」
叔父はふと平伏している姪を見やって立っていった。
給仕に出ている二人の腰元も体をかたくしているのがわかる。
「お愛」
「はいっ」
「顔をあげよ。それではそなたが見えぬ」
「は・・・・はい」
「もそっと前へ出よ。こなたに命じることがある」
「何でござりましょうか」
「そなた覚えているであろう予の言葉を。今宵こよい からそなたに予のとぎ を命じる。わかったか」
お愛はびくりとして上目眼で家康を見やると、
「は・・・・はい」
消え入るようにまたうなじを垂れていった。
家康はそれをじっと眼も放さずに眺めている。
「わかったのだな。しかと」
「はい・・・・わかりまして・・・・」
「よし!決まった 一戦するぞ」
と、家康は言った。そしてはじめておかしそうにフフフと腹をゆすった。
何を考えているのか? 誰にも家康の心の中はわからなかった。

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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