このころはすでに家臣は家康を 「殿」 とは呼ばず
「お館 」 と呼んでいたが、平八郎、作左、元忠などは以前のまま
「殿」 をなつかしがった。 「鍋、何がおかしい」 家康がとがめるように問いかけると、平八郎はまた声を立てて笑った。 「殿のお顔が兎のように尖
ってござりまする」 「なに兎のようだと・・・・」 平八郎がさげている兎をちらりと見やって、 「予が信玄を怖れているとでも言いたいのか」 「ハッハッハ、怖れないものが痩
せると思し召しまするか」 そう言えば、本多平八郎忠勝、二十五歳になっていよいよ逞しく、怖れを知らぬ面魂になっていた。 「殿、殿は西郷のお愛どのをお側に召す約束で、まだそのままに預けおかれるそうでござりまするな」 「女子供の話など鷹野でするな。ここへ坐れ」 「仰せがなくとも坐りまする。が、約束して預けた女子も召し出さず痩せてござるとは、よくよくのご心痛で」 平八郎はからかうように言って、どたりとその場へ坐った。 「殿は、まさか、甲斐の孺子
を恐れているのではござりますまい」 「こびと・・・・というと、山県三郎兵衛か」 武田家の名将山県三郎兵衛昌景は、四尺に足らない小男で、それが鎧をまとうと胴の長さが三、四寸にしか見えなかった。 「昌景ずれを予が怖れると思うておるのか」 家康はちらりと平八郎を見やってその眼をそのまま、甲、信、遠の国境につながる山脈に向けていった。 その山脈の向こうではすでに上洛戦の準備が着々と整えられているに違いない。信玄が甲府のつつじヶ崎の城を出ると、旬日ならずしてこのあたりは三万近い大軍を迎えることになろう。 家康の現在の所領は五十六万石、もし信玄を邀撃
するとして、吉田岡崎の線の守備を考え合わせると、敵の正面に立ち向かえる軍勢はせいぜい五、六千だった。 むろん今度は信長にも加勢は頼んである。が、周防八方に敵を受けている信長が、果たしてどれだけの援軍を廻し得るか。 「やっぱり年功を怖れているのだ」 と、平八郎はまた言った。 「狸は年を経たものほど化
かすのがうまいというが人間もまた同じらしい。殿は化かされかけている」 「鍋 その方は見事甲信の大軍を蹴散らす自信があるというのか」 「自信とは何のことじゃ殿。この平八にそのようなものはない。怖れのない者に自信などいらぬことじゃ。が、ただ殿の怖れられる信玄の年齢をこの平八は逆に考えている」 「逆に・・・・というと?」 「おいぼれだということだ!
この血気壮 んなおれたちの力が、おいぼれに負けるなどとは考えられぬ。隙あらば飛びかかり、追いかけられたらさっさと退く。ただ戦をするだけだ」 「うむ。が・・・・もし討たれたら何とする?」 「死ぬまでじゃ」 「死は怖くないか」 「知らぬ。平八はまだ死んだことがない」
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