家康は呆れて平八郎を見守った。彼が平八郎を呼んだのも、どこかでそうした自信を得たいからでもあったが、それにしてもこれほど割り切った答えを聞こうとは思っていなかった。 「そうか。死んだことがないか」 「なぜ生まれたかも知らぬ。したがって生死など考えはせぬ。殿も、生まれた時の事はわかりますまいが」 「たわけめ!」
相手が図に乗りそうなので、家康は叱りつけた。 「よけいな無駄口はたたくな。人生鼻はな、重い荷物を背負って一歩一歩坂道を登るようなものだ。と思えばこそ、早まった油断はないかと思案を重ねてみているのだ」 「では、出て戦う覚悟は決まったので」 「むろんのことだ!」 言ってしまってハッとした。それは思案していた声ではなくて、自分を眺めたとき、自然に出て来る答えのようであった。 人生は努力によって決定する。それにはいささかの疑いもなかったが、それ以上の何ものかがあることも否定できなかった。 その何ものかがいま家康の頭の中で渦をまいている。 (信長はなぜ尾張に生まれ、信玄はなぜ甲斐に生まれたのだろうか・・・?) 信玄の兵法と信長の兵法に、さしたる開きがあろうとは思えなかった。したがって信長が甲斐に生まれ、信玄が尾張に生まれていたら、今攻めるのは信長であり、京へ進出しているのは信玄であったろう。 そう言えば、今川義元と織田信長の田楽狭間
の一戦にもその何ものかの力が確かに働いていたようだった。当然勝つべき者が敗れて、信長はそこから破竹の勢いでのびていった。 「鍋 ──」 「なんじゃ殿」 「このあたりに七朗右衛門はおらぬか」 「七朗右衛門の意見も聞こうというのだな殿は。よし。呼んで来よう」 平八郎は立って大きな声で大久保七朗右衛門忠世
を呼んだ。 忠世は常源老人の甥で、伯父よりは角の取れた、しかし一歩もうしろへ退かぬ代表的な三河者であった。 「何だ。猪でも出たのか平八」 忠世はそう言いながら草を分けて来て、 「これはお館
さま」 家康の姿を見つけると、 「お館じゃ、これ、ご挨拶せい」 と、うしろへ向けて手を振った。 うしろへ十四、五に見える、ひどく目玉と耳の大きな少年が、手に枯れ枝を持ってあたりの灌木
をなぎつけながらついて来る。 「七朗右衛、それは?」 「はい、末弟の平助
でござりまする。平助ご挨拶をせい」 するとその少年は不精たらしく膝をついて、 「平助ではござりませぬ。彦左衛門
忠教 と、まだ前髪はありますが名乗りがござりまする」 ぷーッと兄の方へ口を尖らして、こくんと一つ頭を下げた。 「ふーん、そうか甚四郎
が末っ児か。そうか、ではその方に訊いてみよう。その方、この家康と竹田勢が戦っていずれが勝つと思うか正直に申してみよ」 「いやだ。答えぬ」 平助はかんたんに首を振った。
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