西郷のお愛が、三度目に家康の前へ現れた時は軍旅を解いて、久しぶりに本丸の風呂場へ来た時だった。 家康は石風呂、蒸
し風呂のたぐいよりも、赤味の杉桶
にもりこぼれそうな桶湯を好んだ。その中に身を沈めてざざざっとこぼれてゆく湯の音と木の香がたまらなくなつかしい。 「これで生き返った!」 まだ日は暮れおちていなかった。中を明るくするためにわざわざ開かせた窓から赤い夕焼け空がのぞかれ、すぐ近くの梧桐
の葉がたえず風に身ぶるいしていた。 「お背をお流しいたしまする」 一風呂浴びて流し場へどっかと腰をおろして、しみじみと凱旋の感慨にひたっているとき、うしろの戸がそっと開いた。 「うん、流せ」 何気なくちらりと見やって家康はどきん!
とした。またしてもお愛なのである。 お愛は主君の裸形に伏目になるのを恐れているようだった。 わざと静かな、さり気ない視線でそれを仰ごうとする。が、心の中の羞恥は意志に服従せず、何かにうろたえている風情
だった。 「いかん!」 と、家康はどなりつけた。その声は小さな浴室にこもって、家康自身がびっくりするほど大きかった。 「何と仰せられました」 「いかんといったのだ。そなたではならぬといったのだ」 家康はなぜそういうのか自分でもわからぬくせに、性急に同じことを繰り返した。 「・・・・何か不調法
が・・・・」 「いいや、いかぬ! 背を流すのははした女
の仕事、何でそなたがわざわざ出て来るのだ」 「は・・・・はい」 「代われ、ほかの者と代われ」 「はい、では代わりまする」 お愛がそのまま出て行くと、 「これ!」
と、家康はあわてて呼ぼうとして思い直したようにフフフと笑った。 「お愛め、叱られたと思っている」 それは心外だった。お愛の顔を見た刹那、お愛に背中を流させるのは残酷な気がしたのだ。そちはもっと名家の生まれ
── そんな意味であわてた言葉が叱る口調になっていったのだ。 お愛の指図で、代わった女が入って来た。 まだ十七、八のひなびた娘。家康はその女にたまった垢をかかせながらふとまたおかしくなって笑った。 お愛の表情にも羞恥を押えようとする努力のあとが見えたが、自分がお愛を追い出したのにも羞恥に似た狼狽があったのかも知れない。 「これ、そなたの名は何という」 「菊乃でござりまする」 「ほう、よい名だの、さっき来たお愛は、何か申していたか」 「何かお殿さまのお気にふれたようだった。そなた往んで、お流しせよとおっしゃりました」 「そうか。やっぱりそう取ったか」 たぶん戦旅から帰った主君、自分の手でと思った律儀
な行為であったろうに・・・・そう思うと家康は、なぜかふと淋しくなった。 「作左が言い種
ではないが、わしはまだ扱い方を知らぬようだ」 「はい。何でござりまするか」 「たわけ、ひとり言じゃ、ご苦労、もうよい退っておれ」 |