家康はそれからまたひとしきり湯ぶねに沈んでうっとりと半眼を閉じていた。 城へたどり着くまでに、ときどき思い出した女はお万であった。が、そのお万は自分を出迎えていたのかどうか!
それすらはっきりと思い出せない。出迎えた人々の中に見つけたお愛の顔が、お万の姿を遠ざけてしまったらしい。 家康はフフフと笑った。何か二人の間を見えない糸が繋
いでいる・・・・そんな子供じみた空想がわいて来たからだった。 ことによると亡くなった吉良
御前が、自分によく似たお愛を家康のそばに近づけて来たのかもしれない。それだったら定めし意地悪い眼で、家康がそれをどうするかと、どこかで見ていることであろう。 家康が風呂を出るとお愛はまた着替えをささげて待っていた。 さっきのことを叱られたと思っているせいであろう。いくぶん固くなっている。視線が家康と会うたびに姿勢を正す感じであった。 几帳面な、律儀な、そして外柔内剛の性格らしい。 家康はわざと一言も声をかけずにお愛の前から大広間へ出て行った。 大広間ではすでに勝利を祝う膳の用意がととのっていた。 まだあたりはほのかに明るかったが、二間おきに、燭台の灯がゆらめき、濁酒がなみなみと盃に注がれていった。 酒井左衛門尉と、松平家忠が一さしずつ立って舞った。 女どもは近づけない。酒のあとには七分づきに麦を混ぜた大盛りの飯にとろろ汁で、それを舌をとろかすように美味
かった。 宴は暗くなると間もなく済んだ。 それぞれが上機嫌で引き取ると、家康も涼風をしたって庭へ出た。 うしろへ黙って刀をささげてついて来る井伊万千代に、 「そちは縁で待っていよ」 そい言いおいて泉水のふちを廻り、築山のあじまやに入っていった。 空にはあざやかに銀河がかかり、浜から吹き寄せる風の中に潮騒
がまじっている。 家康はふと信長のことを思った。 信長は、もうまた出陣の用意にかかっているのに違いない。というのは、家康が近江を引き払うころ、四国を出て来た三好三党が、石山
本願寺 の近くまで進出して来て、しきりに砦
を構築しだしたという情報が入っていたからだった。 (ここ一両年が、信長の運命を決してゆくが) 信長は次々に襲いかかるそれらの波を見事乗り切るに違いない。 (その間にこの家康のなすべきことは・・・・) 「殿
──」 と、いきなりうしろで声がした。 「なあんじゃ、作左ではないか。びっくりさせる男だ」 「そろそろ武田方の物見が遠江に入り込んでおりまするぞ」 「覚悟の前だ。甲斐では信長どのに、先に京へ入られたを一ぱい喰うたっと臍
を噛んでいる」 本多作左衛門はのこのこ家康のそばへ寄って来て腰をおろした。 「この城では小さすぎる。甲斐の軍勢を引き受けて戦うには」 家康は応える代わりに胸を広げて冷風をいれていた。 |