〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/06 (月) 男 対 男 (七)

越前の真柄の名は、その豪刀とともに諸国に鳴り響いていた。年齢はすでに五十歳を越えている。が、鍛えぬいた膂力りよりょく の強さは一向に衰えない。
その勢いに押されて進みかねていた味方はやがてじりじり退きだした。そうなると敵は逆に気負い立つ。
何かわめきながら対岸へ出て来て采配を振るっている敵将朝倉景隆の姿が見える。
「続けッ」
家康はぐっと手綱を絞ると眼を怒らして二、三十間前へ出た。
が、そのときには、すでに前線にこちらを向きかけた者がある。
家康の歯がきりきりと兜の中で鳴った。
ダダン! どこかで鉄砲の音が、朝の空にこだましたが、それはまっ先に進んで来る真柄直隆をそれて、かえって彼に猪突ちょとつ の機会を与えてしまった。
「殿!」
と、旗下きか の本多平八郎が家康の顔をにらんだ。
「待てッ」 と、家康は答えた。
平八郎にというよりも、自分自身の血気をおさえる叱咤しった であった。
「殿! 後ろ向きになったら戦は終わりじゃ。殿!」
「たわけッ」
家康の額にあぶら汗がういて来た。彼は右手の織田勢が浅井勢へ斬り込むのを待っているのだ。
ひた押しに押してくる勢いはいかなる力でもとどまるものではない、かえって押させておいて、ホッとした時、その時こそ水勢のにぶる時なのだ。
それに織田勢が川を渡っておれば、敵はうしろも気にかかる。
織田勢の先鋒が川を渡った。
「殿のバカ!」
平八郎が槍で鞍をたたくのと、家康が、あぶみ をふんで立つのとが一緒であった。
「旗本、かかれッ!」
采配は朝の光の中で躍った。旗下を崩して戦う・・・・それはもはや一歩も退かぬ決戦の証拠であった。
旗下の弓勢ゆんぜい が射掛ける のあとから、平八郎の馬が、糸をひくように河原へ走った。
伊賀八幡の宮司ぐうじ が作った鹿の角の前立てつけた兜は、これもまた三河勢の名物として近辺に鳴り響いている。
かれはまっすぐに真柄直隆の前へ馬を飛ばして、
「三河の鹿だ!」 と怒号した。
ぴたりと鼻尖に槍をつけられ、真柄の馬は立ちかける、十郎左衛門直隆はそれをくるりと乗りしずめて、
「平八郎か退けッ」
「十郎左か退けッ」
平八郎はどなり返した。
「おれの進む邪魔になる。おいぼれ退け」
「ふーむ。それが三河の小僧の挨拶か」
返り血を浴びた四角の顔がニッと笑った。
「行くぞ小僧!」
「行くぞおいぼれ」
四つの眼ががっきと空間で切り結ぶと、三河勢の足はようやくとまった。
敵味方の法螺貝ほらがい が河原を圧してひびいている。

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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