家康はあたりの地形をしさいに観望しながら竜ヶ鼻をくだった。 どこまでも小細工でなく堂々と信長に相対し、さすがは浜松、頼もしい男・・・・はっきりそう印象させなけらばならず、そう思わせるには当然全力を尽くして実力を示さなければならなかった。 信長を通じて示す
「実力」 だけが、今の日本に家康の存在を示す所以
なのだ。 眼の下へ銀蛇のようにのびた姉川。 その向こうの大依山
には越前から出て来た朝倉勢のおびただしい旗差し物が緑の中に揺れ動き、その左の小谷山から伊部、八島への道筋は、いよいよ横山城の救援に城を出て来た浅井勢の前進が望見される。 これは姉川の対岸野村のあたりに陣し、朝倉勢は大依山を下って三田の線に出て来るに違いない。 家康は姉川河原に展開される決戦の模様をあれこれと脳裡に描きながら、西上坂へ集結を命じてある三河勢のあとを追った。 家康の予想は的中した。 翌二十八日に朝倉勢は、三河勢の前面に川をはさんでやって来た。先手の大将は朝倉景隆
らしい。 家康の主張によって変更された織田勢はと見ると、朝倉勢の先陣を家康に与えたので、第二陣へ柴田勝家と明智光秀をおき、第三陣は稲葉
一鉄 、浅井勢の第一陣には坂井右近、第二陣には池田
信輝 、丹羽長秀は横山城の押えにあてて信長自身は木下藤吉郎、森三左衛門らの旗本を従えて本陣を家康の右、東上坂へすすめている。 家康はニコリとした。彼の進言によって、信長は水も洩らさぬ十二段構えで敵の仕掛けて来るのを待つと見えた。 「これでこそ!」 信長はすでに畿内の安定勢力、華々
しい陣立てでは家康に笑われる ── それを思っての布陣であるのがよくわかった。 明くれば六月二十八日 (新暦八月十一日) 。 暁の川霧がゆるく北へ流れ去るのを待って、浅井、朝倉勢はいっせいに姉川を渡って、家康、信長の本陣めがけて挑みかかった。 朝倉勢は八千余騎、それが槍ぶすまを作って五千の三河勢をひともみに揉み潰
そうとしてやって来る。 相手が川を半ば渡ったところで三河勢も斬って出た。 家康は朝の河原に立ち、朝日を背にしてじっと戦いを観望する。 「──
この戦、三河勢の真価を天下に示す戦ぞ、ひるむな」 きびしくそう言い渡してあるのに、両勢がぶつかり合ったと思うと間もなく、ワーッと味方が二つに割れて押し戻される。 「はて?」 家康はのびあがった。と、味方の一線を蹴散らしながら阿修羅のように進んで来る敵の一騎が眼に入った。馬も人もすごく大きい黒糸おどし。その頭上に舞う白刃の輪の大きさを見て、家康は思わず手に汗を握った。 「越前にその人ありと知られた真柄
十郎左衛門直隆
、木ッ葉武者に眼なかけそ。家康どの見参」 五尺二寸、つねに四人の従者にかつがせて歩くという自慢の大太刀をふるって、味方を蹴散らして来るのである。 家康の若い血潮はカーッと全身を熱くした。
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