家康はまた言下に応じた。 「変更できぬとあらば、このまま浜松へ引き返すまででござりまする」 「浜松、その言葉はおだやかでないものを含んでいると思わぬか」 信長はキラキラと汗の噴いた胸板を無造作に拳でこすりながら、 「それでは世間で、おぬしとおれと仲違いしたというかも知れぬ」 「家康は謹厳に首を振った。 「それは反対でござりましょう。館は自信満々、家康の助力も受付なんだと噂するのは必定でござりまする」 「では、おぬしがおれの言うまま予備として控えていたら、おぬしの顔はどのようにつぶれるのだ?」 投げ出すように言われて、家康は、ぐっと上半身を乗り出した。彼の言いたいことは、その一点にあったのだ。 「この家康が末代まで笑われまする」 「勇気が足りぬと思われてか」 「いいえ、館にへつらう腰抜けめがと笑われまする」 「な・・・・なんと言った。腰抜けだと思われる・・・・?」 思いがけない言葉を聞いて、信長の眼は異様に光った。と、家康はいよいよ落ち着き払って、 「いかにも。必要もない戦場へご機嫌取りに馳
せつける。家康が用兵は、治国家の第一義をwすれた私心の用兵、地上に無用の乱を招く野武士の根性と笑われまする」 「うーむ」 と信長はうなった。 びしりと一本真っ向から打ち込まれた。 (こやつ、大した男になりおった!) 少なくとも信長の家臣に、これほどはっきりと物の言える男はなかった。 そう言えば信長の気性の激しさに負けて、誰も彼もがいくぶんへつらい気味だった。 あるいは家康はそうしたことへの警告も含めて信長に対しているのかも知れない。 信長の顔が皮肉にゆがんだ。 「すると、おぬしは、このおれにおぬしの手勢の強さをはっきりと見せておこうというのだな」 「御意
、それでなければお力になりますまい」 「できれば、おれの度胆を抜いて、驚かしておきたいのだろう」 家康はあっさりとうなずいた。 「驚く館ならば、家康だけにはかなわぬものと」 「ワッハッハッハ・・・・いや、押しの強い男だ。信長が一旦決めた手配りを変えさせたのはおぬしばかりだ。わかった!
では、おぬしに第一陣をお任せしよう」 「お聞き入れ下さりまするか。それで家康、家臣に面目が立ちまする」 「などと鹿爪
らしく・・・・いや、これでさっぱりした。よい気持ちだ。では浜松、おぬしはすぐここをおりてくれ」 家康ははじめてまた溶けるように笑った。 家康の到着を知らされて、軍議のために続々武将がやって来る。家康に第一陣を許したとなると、その武将の中に納まらない者が出てくるからに違いなかった。 「では西上坂に陣を決めまする」 家康は一礼して立ち上がった。灼けつくように油蝉が鳴いている。
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