〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/04 (土) 真 昼 の 梟 (七)

「信忠どの!」
と、濃姫はたしなめた。たしなめられて信忠は自分の凛々りり しい武装に気づいたらしく、
「梟め、人馬の音に驚きおったわ」
照れたように床几にもどった。
梟は畳の上であわてて羽づくろいをした。まんまるい眼が爛々らんらん と光っていて、いかにも猛禽類もうきんるい らしい威容だったが、そのくせ何も見えてはいない。
濃姫はその梟にびっくりして、身をすさらせたお類の方とお奈々の方の姿から、何の関連もなしに将軍義昭の顔を思い浮かべていた。
(梟・・・・真昼の梟・・・・)
梟でなくてよかったと、濃姫は改めて自分の生き方を思い返した。
「お心にかけられることはない。万一の時にはそれぞれ信忠どのからお指図がありましょう。お二方は引き取られませ」
「ごめん遊ばしませ」
二人の女が去ってゆくと、濃姫ははじめて信忠に笑顔をむけた。
「迷い込んだ真昼の梟、若君はなんと成敗せいばい なされまする」
信長ならば、誰が止めても飛んでいって、いきなり翼をちぎるかも知れぬ・・・・そう思いながら笑顔を向けると、信忠は澄んだ眼をカチリと濃姫に向けて、
「そっととら えて放してやりまする」
「なぜ・・・・?」
「お父上が旅にあるゆえ」
「おおよい分別、あたたかい見上げたおこころ」
「八右衛門、その梟、眼が見えぬ。哀れじゃ。放してやれ」
「はッ、かしこまりました」
生駒八右衛門が、羽ばたく梟を縁から外へ放してやった時だった。
「ご注進!」
矢部やべ 善七朗ぜんしちろう に付き添われ、信長からの第一の早馬、下方しもかた 平内へいない が額の鉢巻を真っ黒の汗で染めて到着した。
「おお平内か。御前へすすめ」
信忠に声をかけられ。彼はあぶなく前へ泳いだ。長い騎乗で膝の関節が思うままにならないらしい。
「平内、早う注進のおもむき申せ」
信忠が きたてた。
「ははッ、おん大将、敦賀より、金ケ崎、手筒山と陣を進め、一乗ケ谷へいま一息のところにて浅井長政より手切れの挨拶」
「わかっている。その後の父上は」
「すぐに越前を陣払い。京へ引っ返す所存ながら、いかなる合戦になるやも知れず、よって留守の軍備怠りなきようとの申し付けにござりまする」
それを聞くと、信忠はちらりと濃姫を見やって誇らかに笑った。
「その準備ならばすでにしている。案じるな」
「が、途中で聞けば、軍備どころか、小谷の城へ押し出すよし・・・・それ・・・・それは・・・・第二の注進をお待ちあって」
「案ずるな。うかつに城を出るものか。よい、退って休め」
こんどは濃姫がほほえんだ。
すでに信長の心は読みきって、少しも食い違いはないようだった。
(これが夫婦・・・・)

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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