〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/03 (金) 真 昼 の 梟 (六)

信忠のそばには留守居の重臣たちが続々とつめかけていた。織田信包のぶかね の指図で、滝川たきがわ 一益かずます川尻かわじり 肥前守ひぜんのかみ のもとへは使者が飛び、生駒いこま 八右衛門はちえもん 、福富平左衛門らの指図で、
「── 小谷の城目指して岐阜勢出陣!」
の間諜がつぶてのように放たれた。
この間諜の飛ばす流言によって、浅井勢を二分させると、信長の背後をおそ う勢力が半減する。
ぼうぼうと法螺ほら がい が鳴りだした。
濃姫はその音に耳をかしげながら、ニコリと頬へ笑いをきざんだ。あまりにあげしい人生の変転を見て来ているので、信長の無事を ── と祈る気持ちより、笑われずに、その生涯を閉じるようにとの不敵の希いがつよかった。
(殺すものは殺される・・・・)
それが避けがたい現実である限り、殺されることは問題ではなく、その死にどんな心境で立ち向かったかが問題であった。
(はたして最善が尽くされていたかどうか?)
濃姫はもはや自分と信長の間に何の対立も感じなかった。濃姫自身は信長の一部であり、信長は濃姫の一部であった。子供の有無にかかわらず、そこに 「信長夫婦」 という一体の生命を意識して生きているのである。
法螺貝が鳴りだすと、案のごとく、奥でみんなが騒ぎだした。
彼女たちはそれぞれ信長の子を産んでいながら、信長とは別々に生きている。
信長の志はわからず、行動なども五里霧中であった。
お類の方がまっ先にバタバタと駆けて来て、
「若さま」 と、わが子に呼びかけ、そのかたわらにいる濃姫を見ると、
「戦でござりまするか」
と、一段下に崩れるように坐った。
つづいてお奈々の方が、これは手に懐剣をもったまま、
「出陣の貝でござりましたが・・・・」
濃姫はきびしい眼で二人をおさえた。
「信忠どのがおられまする。立ち騒いではなりませぬ」
信忠はその声にうながされて、
「案ずることはない。敵への備えじゃ」
と、鷹揚おうよう に言った。
「さよう。奥へ引き取られて、万一の時には、山上の館まで引き揚げられるようにご用意なされ」
「はい。してその攻め寄せました敵は?」
「小谷城の浅井勢が寝返りじゃ」
「まあ浅井どのの・・・・」
お奈々の方と顔見合わせておどろくお類を見ていると、濃姫は、自分と彼女たちの生き方の開きがぐっと胸にせまった。
お類の方もお奈々の方も濃姫よりはるかに不愍ふびん な位置にあった。それは、どこまでも信長の妻ではなくて、飼われている女であり、寄生木やどりぎ なのである。
バタバッタと音がした。貝の音に驚いたふくろう が一羽、窓から飛び込んで来て、北の長押に体をぶつけて広間に落ちた。
「あっ、梟じゃ梟じゃ」
一瞬、子供に返った信忠は、床几から立ち上がった。
お類の方とお奈々の方が不意の闖入者ちんにゅうしゃ にあわてたさまが、この少年の興味をぐっとそそったらしい。
梟はバタバタと ばたいた。

徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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