濃姫はしばらく平左衛門と梨の花とを見比べたあとで、 「殿のもとからのお便りは?」 と、静に訊いた。どうやらまだ浅井家の離叛
に心づいた様子はない。 「はい、越前へのご出馬以来、何のたよりもござりませぬが、すでに一乗ケ谷へ迫っている頃かと存じまする」 濃姫はそれに応えず、年とともに豊にくびれたおとがいを斜めに見せて吐息をした。 岐阜へ何の知らせもないということは、通路を浅井勢に断たれているということだった。 「平左衛門どの」 「はい」 「この濃は、今日は差し出口をいたしまする」 「は・・・・?」 「表のことは口を出すなと堅い殿の仰せながら、今日はその戒
を破りまする」 平左衛門はびっくりしたように濃御前を仰いでまばたいた。柔らかい挙措
の中に、信長も一目おくほど強いものを隠し持った御前。その御前が信長の留守中の言葉だけに胸にひびくものがあった。 「平左衛門どの、浅井親子は、朝倉家へ寝返りましたぞ。そのときの用意、まさか怠
りはござりますまいの」 「えっ? 浅井どの親子が・・・・」 平左衛門は袴
の裾を掴んで、 「それはまことでござりまするか」 「用意はと訊
いています。問いにお答えなさるよう」 「はっ、殿ご出陣の留守中ゆえ、仰せあらばいつにても援軍、繰り出せるよう手配はいたしてござりまするが」 「援軍ではござりませぬ」 濃姫は叱る口調であった。 「ただちに城のかためを堅くして、当方より浅井親子の小谷
の城、すぐにも襲わねばなりませぬ。その用意を」 「ははッ」 「お待ちなされ」 濃姫は立ちかけた平左衛門を呼び止めた。その眼は深い光をやどして、星のように澄んでいる。 豊な頬に、ちらりと微笑が読み取れた。 「このたびの朝倉攻めに、心許せる旗本衆はみな殿のおそばにある。ただちに小谷城を攻めよとは表のこと・・・・お分かりであろうの」 平左衛門はごくりと唾を飲み込んで、それから大きくうなずいた。 「内実は、浅井親子の襲来
に備え、籠城 と、受け取ってござりまするが」 「いかにも、が、ただ籠城と見せたのでは、殿のお力にはなりませぬ。今にも越前へ向かう浅井の背後に押し寄せると見せかけねば──」 平左衛門ははじめてはっきりと濃姫の言葉の意味が腑に落ちたらしく、 「委細
!」 と、胸をたたいた。 「お急ぎなされ。寸刻を争いまする」 「はっ」 平左衛門が去ってゆくと間もなく、城の内外に人馬の響きがあふれて来た。 濃姫はじっとそれに耳を傾けて、塑像
のように動かない。 将軍義昭の不信と浅井親子。それにつながるお市に方とその子のことなど、人生の糸のもつれのあやしさが、息苦しく胸を圧迫して来るのである。 「殿!」
と、濃姫は無量の感慨を込めて、良人のまぼろしに呼びかけた。 |