濃姫にとってこれほど意外なことはなかった。母方の従兄にあたる明智十平衛を介して、 「──越前はとるに足らずと、義昭さま、ご当家におすがりでえござりまする」 信長のもとへ尾羽
打ち枯らして頼ってきた時の義昭は一介
の落人 だった。それが今は征夷大将軍として京童
も目を見張るこの結構な二条邸のあるじになっている。それも箸
から沓 まで信長の息のかからぬものとてはなく、それだけに義昭は心の底から信長を徳としているものと信じていた。 その将軍が、良人の背後を浅井長政に衝
かせ、甲斐の武田を語らって、良人を除こうと陰謀していようとは・・・・ すでに武田家へも密書を下したと聞かされて、細川藤孝も愕然
とした様子であった。 「── これはまた何としたことを! 公方には、そのような密書をうけたとて、武田がすぐに上洛できると思し召しまするか」 「──ハハハ、藤孝は忘れていると見える」 義昭はまた笑った。 「──
越前の朝倉家には、もとの岐阜の主、斉藤竜興が身を寄せている。斉藤、朝倉、浅井の諸将に叡山、本願寺の味方がある。当今武略第一の武田信玄、何で上洛を躊躇
しようぞ」 「── もってのほかな!」 と、藤孝はさえぎった。 「── 武田家には眼の上の瘤、越後
の上杉 謙信
がござりまする。相模の北条、三河遠江の徳川がござりまする。たとえそれらを蹴散らしたとて、容易に近畿
の小田の領地は通れませぬ」 「── いやいやそてはお身の計算違い。その時にはすでに信長、朝倉浅井の挟撃
にあって、この世に亡いかも知れぬのじゃ。いや、万一生残った時の質にと、美濃御前まで本日ここに招いたのじゃ」 「── 相なりませぬ!」 藤孝の声はぴりりと障子
をふるわせた。 「── この藤孝の眼の黒いうち、美濃御前を質とするなど思いもよりませぬ」 「── では、どうあってもこのまま帰せとか」 「──
申すまでもないこと。そのような姑息
な処置、後世のもの笑いにまりましょうぞ」 そこまで聞いて濃姫はそっと窓のそばを離れた。 もはや怒りは消えうせて、衣食足れば陰謀する小人の哀れさがひたひたと胸を打った。 濃姫はさっきの部屋へ戻って来ると、手を鳴らして二条邸の召し使を呼び、さっそく帰還する旨
を告げた。 しばらくして、細川藤孝と三淵大和守とがなに気ない表情であらわれた。 濃姫はそれに、穏やかな会釈
をかえして、宿所にもどり、半刻経たぬ間に、男輿
で宿所を発ち途中坂本に一泊して来たのである。 良人の安否を気づかうよりも、留守に処するやわらかく強い女の意地であったと言える。 その濃姫が無事に岐阜へたどり着き、一ぷくの茶を喫し終わったところへ、福富兵左衛門がやって来た。 「奥方さまにはにわかのご帰還、お出迎えも申し上げず・・・・」 そういう平左衛門を見やって濃姫は、しずかに天目
に茶碗をおいた。 |