濃姫はそのような空気で取り乱すほど、いまでは鍛えられない肉塊ではなかった。 信長を
「ギフ王」 と呼ぶ宣教師のフロエたちに 「王妃 ──」 よ呼ばれて、呼ばれるにふさわしい威と美とを、うちから磨き出している濃姫だった。その点では、子供があってなおかつ迷い続けている岡崎の築山どのとは、比較にならない強さを内に隠している。 二条邸の九山八海の名石のほとりに設
えられた茶室へは、亭主の将軍義昭のほかに、日野
大納言と高倉宰相とが招かれ、細川藤孝 (幽斎) と三淵
大和守が同席していた。 その中で濃姫の姿は押しも押されもしない落ち着きで、 (さすがは道三入道が秘蔵の子) と、細川藤孝を驚かせたほどだったが、茶のあとで懐石
の膳が出て、帰ろうとする時になってただならぬものを感じた。 濃姫の連れてきた朝山日乗は、皇居の普請
場 へ急用ができて出かけたゆえ、しばらく待ってくれるように・・・・お坊主がそう言って案内したのは将軍の御座所からはるかに離れた狭い六畳の更衣室
だった。 (これはおかしい・・・・?) 濃姫はそう思うと、すぐその部屋を出て、庭への降口をたしかめた。 そしてその沓
ぬぎ石の上にある庭 履
きを見つけると、それを履いて何気ない様子で庭へ降りていった。 これがただの女性であったら、おそらく異常な空気に怖れをおぼえ小さくすくむところであろう。が、濃姫はその反対だった。 (信長ほどの妻が・・・・) 彼女は平然と木石の配置に視線を投じながら、ぐるりと将軍の居間のうしろへ出た。 見つけられたら、 「──
庭の結構にさそわれまして」 そういう気で窓のそとの老梅のそばまで近づくと、思いがけない将軍義昭と、細川藤孝の争う声が聞こえて来た。 細川藤孝は、義昭に臣下の礼を取っていたが、実は義昭ばかりか前将軍義輝の胎
ちがいの兄であった。 「── 公方
は過 っておられまする。すでにこの新邸で足利家の再興かないましたうえからは、静かに信長どのと天下の計をめぐらされるが第一」 「──
藤孝、こなたは信長を知らぬのじゃ。信長はこうしてわしを立てておき、やがてわしを斬ってみずから将軍になる気に違いない。それゆえ、わしがどのように申しても副将軍を受けはせぬ」 「──
これは公方のお言葉とも覚えませぬ。ご覧ぜられるとおりこの乱世、公方みずから武力の討伐思いもよらず、それに代わって骨身おしまぬ信長どの、度量を大きくお認めなされねばなりませぬ」 「──
フフフフフ」 と義昭は笑った。 「── すでに遅い。もう遅いぞ藤孝」 「── 遲い・・・と仰せられるは?」 「── すでに朝倉攻めに出て行った信長の背後、浅井父子が蹴散らしてたたいておろう。わしも信長は嫌いじゃ。が、わしだけではない。山門
(叡山) も本願寺も大嫌いじゃ。それになあ藤孝、わしはせでに甲斐の武田にも密書を下した。急ぎ上洛して信長の領地を納めよと」 濃姫は、双頬
をひきつらせ、眉をあげて窓の外でブルブル震えていた。 |