〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/02 (木) 真 昼 の 梟 (一)

岐阜城の偉観は、稲葉山麓の千畳台の館にがじまる。巨石を積んだ頑丈な石垣と、それを囲む若葉の重なりにさんさんと春の陽があたっていた。
この城をはじめて訪れたポルトガルの宣教師、フロエが、
「── 石の大きさ驚くべく、これを結合するに、少しも石灰を用いていない」
と、豊後ぶんご に来ている同じ宣教師フィゲレンドに書き送った岐阜城だった。当時ポルトガルの印度いんど 総督官邸、ゴアの宮殿よりもはるかに大きいとも書いている。
その千畳台の館の庭にはいま梨の花が煙るように咲いていた。
京から帰った濃姫御前は、その頑丈な石垣門をぬけるときにも、大玄関から館をぬけ、梨の花の間を一段上の 「奥」 へ通る時も、一口も口を利かなかった。
こんなことはめずらしい。
奥の諚口に、あわただしく出迎えた側室たちにも、ちらりと一瞥いちべつ をくれただけで自分の居間へ通っていった。
居間へ通るとすぐに侍女の玉緒を呼んで、
「集会所へはどなたが詰めておられるぞ」
低い声で訊いた。
「はい・・・・どなたかはっきりとは」
「知らぬと言いやるか。それは念が足りませぬ。たぶん今日は福富ふくとみ 平左衛門へいざえもん どの出仕のはず、これへと言やれ」
「はい」
玉緒があたふたと出て行くと、入れ違いになぎさ天目てんもく をささげて御前の前へおいた。
濃姫はそれを取り上げて、はじめて煙るように咲いている梨の花を見やった。
まだ良人の信長が、金ケ崎を退く前であった。
「心にかかる・・・・」
と濃姫はつぶやいた。父が築いたこの城は彼女の目の前で四たび持ち主を変えている。
父の道三入道から、父を討ち取った義竜よしたつ に変わり、さらにその子の竜興たつおき となってそれから良人の信長に変わった。
その信長が越前へ兵を出すと知ったときには、濃姫は何の心配もしていなかったが・・・・
夫婦の愛情からではなく、一人の人間として、濃姫は十分にその良人の才略を認めていた。
敵とすると、これほど恐ろしい敵はない。が、その豊な才能を知って近づいてゆく者には滴るような情をもってこたえてくる。
したがって濃姫は、自分が感得している受け取り方で、お市の方の良人浅井長政も、信長の助力で将軍になった足利義昭も信長を認めているものと信じていた。
ところがそれは錯覚だったらしい。
信長が坂本を発した日に、濃姫の宿所にしていた半井なからい 驢庵ろあん のもとへ、将軍義昭から茶の湯の招きがあった。
濃姫は朝山あさやま 日乗にちじょう を供にしてよろこんで出向いていった。
将軍の二条の新邸とて良人信長が、人心安定のためにと巨費を投じて造営し、そのままこれを献じたものであり、その落成の宴の折り、将軍自身で信長に酌をしたとさえ聞いている。それだけにいささかも気おくれた感じはなかったが、着いてみて冷やりと空気のただならなさを感じた。
どうやら相手は濃姫をそのまま質に取り込めようとしている様子だった・・・・
徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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