〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/01 (水) 不 如 帰 (十二)

「ご決断なされませ。すでに誓書を返した使者は、小谷の城へ早馬を飛ばしておりまするぞ」
家康にうながされて、信長は思い定めたように床几を立った。
さすがに家康! きびしいところへ眼が届く。すぐに引き返せば、まだ浅井親子は城を出かかるところかも知れない。
「よし! 出直すのだ」
と信長は叫んだ。
「出直して討ち取るのに何の武門の恥辱があろう。信長は至尊しそん のおわす京を預かる身であった」
御意ぎょい !」
と、秀吉が両手をついた。
「浜松どのばかりに頼めませぬ。この秀吉にしんがり仰せ付け下さりませ」
信長は家康と顔を見やった。ここで一人でもそれを申し出る者がなかったら、信長は家康に大きな借りができたであろう。
(愛い奴め・・・・)
この猿だけは、危険が迫ると、必ずそれを買って出る。勇気というより、それはむしろ絶えざる自分への試練であり運試しのようでもあった。
「見事その方に勤まるか」
「お案じなされまするな。秀吉には智謀の泉がござりまする」
「ぬかしたな猿めが。では浜松、京で会おう」
「ご大切に」
「来い。ここはこのまま即陣払いじゃ」
諸将はホッとして信長に続いた。彼らとて、腹背をやくされてこの北国にとどまることの不利はよく分っていた。
が、地理不案内の遠征で、退き戦ほど難しいものはない。気負い立って敵に追い討たれると、そのまま一軍は雲散うんさん 霧消むしょう のうき目にあう。
いっそ追い討ちをかけられるほどならば、進んで活路を見出すのが・・・・と、思ったのだが、その殿軍しんがり を家康と秀吉とで引き受けてくれるとなれば別であった。
信長はいったん金ケ崎へ引き返して、諸将の引き揚げ順序を決め、自身は身辺に森三左衛門と松永弾正をおいて朽木くつき 越えをする気になった。
のぼり幔幕まんまく もそのままにして諸将が出て行くと、木下秀吉はただ一人、じっと腕組みしている家康の前へいって片手をついた。
「浜松どの、今日のご助言、きも に銘じました」
「ご挨拶あいあつ 、いたみいる」
「いやいや、大勇なくばおのお言葉はいでませぬ。これでおん大将は救われました」
秀吉はそう言うと、人なつ っこい笑いをうかべて、
「いざ、浜松どのにもお引取りを」
と軽く言った。
家康はびっくりしたように秀吉を見直した。織田家に木下ありとは聞いていたが、信長ですら案じているこの至難の退き戦を、この小男は一人でしてのけるつもりであろうか?
「木下どの、それがしが織田の館に約束したことを聞かれたはず。朝倉勢の追い討ち、この家康巧みにさばいて見せましょう。ご覧ぜられよ」
「ありがたき仕合せ」
秀吉はニコニコと頭を下げた。
「ご厚志は肝に銘じましたが、この儀ばかりはご辞退申す。いざお引取りを」
家康はけげんな顔でまた改めて秀吉を見直さずにはいられなかった。
徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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