〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/01 (水) 不 如 帰 (十一)

諸将はいっせいに家康を見やり、信長を見やった。
いかなるときにも他人の言葉は耳傾けぬ信長の性格。信長が 「決めた!」 と叫ぶと言葉の返せる者は家中になかった。
その信長に家康はゆっくりと向き直って真正面から反対していったのである。
信長ははじき返すように、
「聞こう。どこがこの信長らしくないというのだ」
まなじりをあげて訊き返した。
「されば・・・・」
家康は穏やかな表情だったが、その眼はひたと信長をうごかず、
「浅井長政がなぜわざわざ誓書を返してよこしたか。館はこの事実を何と解されまする?」
「一にも二にも小義を唱える浅井親子の小癪な癖なのだ」
「とおわかりあらばいま一考なされませ」
「なに! すると浜松は、わざわざ誓書をつき返して来た長政の行為の中に、何かなぞ でもあるというのか」
家康はひたとその眼を据えたままかすかに首を左右に振った。
「そこまで考えては考えすぎましょう。事実その中に謎があったとしても、それに頼るは油断のもと。ただ誓書を突き返さねば心が済まぬという・・・・その律儀りちぎ な気性にお目をとめられませ」
信長はふーむとうめいて、かすかにその眼をなご ませた。
「思うままを申されよ。信長、虚心に承ろう」
「館! 館の敵は一個の朝倉ではござりますまい。もしこのまま長対陣とならば京も岐阜も心もとない。進撃と見せかけて、ここはただちに兵を退かせられませ。この家康の見るところ、浅井親子はまだ退き口の固め十分とはゆくまいかと存じまする」
「・・・・」
「律義者の戦は長対陣に強く、とっさの出兵には手間取るもの、まして誓書を突き返さねば済まぬと思う・・・・その心に味方の活路がござりまする。もし退き戦が心にかからば及ばずながらこの家康、殿軍をつとめ、朝倉勢をあしらいながら京へ引き揚げてご覧に入れましょう」
信長はもう一度 「うむ」 とうなずき、それからまた割れるような声で笑った。
「どうだみな。浜松どののご意見。何と思うぞ」
「おん大将」
真っ先に秀吉が口を出した。
「浜松どのの仰せのとおり、ここは寸秒も早く退くべきかと心得まする」
「勝家は何と思うぞ」
「拙者は反対でござる。まず根を断って、しかる後に引き返せば、浅井勢は戦わずして崩れましょう。朝倉輩を恐れて退いたとあっては、向後こうご の威令が行われますまい」
「利家は?」
「木下と同じ」
「佐久間は?」
「柴田どののご意見に従いたく存じまする」
「ハッハッハ・・・・・」
と、信長はまた笑った。
「どうだ久秀は何と思うぞ。松永弾正は」
そう言われるとわざわざ危険視されて連れて来られていた久秀はニタリと笑って信長に言った。
「岐阜の館のお心任せ」
家康はぐっと信長に向き直った。
徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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