〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/01 (水) 不 如 帰 (十)

木下藤吉郎が、秀吉と名を改めたのは、伊勢の北畠攻めのおり、すすんで苦難を引き受ける勇気を信長に賞され、
「── あさ 比奈ひな 三郎さぶろう 義秀よしひで にも比すべきもの」
と言われた。その義秀を秀義と逆にした名乗りであった。そしてその後 「@義」 の字が将軍義昭の 「義」 であるところから、はばかりありとして 「吉」 に改めた。
「猿! 浅井めが朝倉に寝返ったぞ」
信長にそう言われると、さすがの秀吉も、
「しまった!」
とただ一言。
越前まで攻め入って、わざわざ敵を一乗ケ谷から誘い出したところなのである。ここで引き返したら、相手は遮二無二追撃して来ようし、退路は地理に明るい浅井の主力に断たれてゆく。
(この小細工、浅井、朝倉だけではないぞ)
背後にきっと将軍義昭の身の程知らぬ陰謀の手が・・・・・と分ってみても後の祭り。
「で・・・・おん大将はいかがなされまする!」
しかし信長は答えない。答える代わりに眉を逆立て、眼を怒らせて若草をふみにじって廻っている。
森三左衛門がやって来た。丹羽長秀と佐々さっさ 成政なりまさ につづいて、真っ先駆けていた柴田勝家が、返り血に兜を染めて入って来た。
「殿、浅井めが朝倉へ立ちましたと」
信長はそれにも答えない。どこまでも慎重に進退しなければ・・・・と、考えるすぐあとから浅井長政に対する憤怒の焔がめらめらと燃え立つのだ。
妹を嫁がせ、宿敵の六角氏を追ってやり、どのようなことがあっても浅井家の安堵あんど は計らおうと、信長ほどの男が、おかしいほど入念に説きもし尽くしもして来ているその長政にしてやられたのだ・・・。
佐久間右衛門が血相変えて入って来た。つづいて右翼の大将前田利家が、これも籠手こてかわ かぬ血のりをいっぱいにつけたまま、
「殿! 何となされまする?」
つづいて坂井さかい 右近うこん に徳川家康が。
家康の姿を見ると信長の心はいっそう痛んだ。
明智光秀が命じられたとおり松永久秀を伴って戻って来ると、 「まるく坐れ」 信長ははじめてぐるりと諸将を見渡した。
「話は聞いたであろう。思いがけぬところで腹背に敵をうけた」
一瞬本陣は、シーンと静まり返って、幕の外の渓流の音がさらさらと心にとおった。
「信長ほどの者が、朝倉ずれに追い討ちをかけられたとあっては末代までの恥辱ちじょく 、運は天に任せた! 一気に一乗ケ谷へ決戦を挑んで行き、運あらば先ず朝倉を壊滅して退き返し、浅井を討つ、運なくば進んで討ち死にと心に決めた!」
「よかろう」
と勝家は応じた。
「一乗ケ谷を一もみにもみつぶ せ」
「まさに! それよりほかに手はあるまい」
みんながそれに同意しかけた時、
「織田のやかた しばらく」
信長に向き直ってぐっと膝に軍扇を立て直したのは家康だった。
「浜松は、おれの意見に反対か」
食いつくように信長が問い返すと、家康はゆっくりとうなずいた。
「織田どのらしからぬご短慮かと存じまする」
諸将の眼は期せずして家康の上に集まり、またさらさら渓流の音が聞こえた。
徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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