〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/01 (水) 不 如 帰 (九)

一瞬、光秀も信長も耳を澄ました。
ひづめの音が幕外にとまると、
「いずれから」
と、問いかける声に答えて、
「小谷城より浅井備前守の使者として小野木おのぎ 土佐とさ 、まかり越してござる。信長どのにお取次ぎを」
野太い声が筒抜けに聞こえて来た。
(しまった!)
と、信長は心に叫んだ。
小谷城の使者と聞くだけでひらめ くように事態はわかる。
カーッと怒りが胸元からから頭へつきぬけ、紺青こんじょう の空へ縦横に稲妻が走った。
以前の信長ならば、ここでただちに大声でわめ き立てたに違いない。いや、みずから飛び出していって、物も言わさず使者の首をはねていたであろう。
が、今の信長はぐっと唇を一文字に結んで癇癖かんべき に耐えた。怒るよりも先ず善後策 ──その分別を持たねばならぬ位置にある。
光秀はと見ると、これもまた凝然ぎょうぜん として信長を見つめていた。とつぜん信長は大声をあげて笑いだした。
もり 可成よしなり が取次ぎに入って来た。
「小谷城の浅井備州さまより・・・・」
みなまで言わせず、
「通せ!」
といって信長はすぐ光秀をかえりみた。
「進撃中止。諸将を集めよ。それから松永久秀を逃がすなよ」
「はっ」
松永久秀は隙さえあれば京へ風波を起こす陰謀病にとりつかれている、と、見てとって、こんどはわざわざ戦列に加えて連れて来てあったのだ。
蒼白な光秀と入れ違いに、浅井長政の使者、小野木土佐が森可成に案内されて入って来た。
額からえり筋まで、べっとり汗をにじ ませて土佐の顔もまた士気いろ。さんさんと輝く陽の光だけが人間どもの感情を嘲笑あざわら うようにうららかだった。
「小野木土佐と申したな。用件は申すに及ばぬ。誓書を返しに来たのであろう。出せッ」
信長がとんと愛刀のこじりで地面をたたくと、
「まず口上」 と、相手ははね返すように言った。
「岐阜のお館には、浅井、朝倉、織田三家の誓約にもとり、朝倉家を攻められる。これ義を重んずるわれらが断じて承服しょうふく まかりならぬところ。よって浅井、織田両家の交わりはこれまで、誓書返却の上、改めてお館に一矢いつし お酬い申すとの口上でござりまする」
「ハッハッは・・・・」
と、信長は笑いとばした。
「震えるな土佐。信長に斬られると思うてか。立ち帰って備州に申せ。うぬの義は井蛙せいあ の義、かわず めにはついに信長の大義は見えなかったかと」
「では、たしかに誓書お返し申しまする」
「受け取った! いずれ戦場で会おう。ものども、使者に湯をふるまえ」
相手はじろりと信長を一瞥いちべつ し、士気いろのまま昂然こうぜん と胸を張って出て行った。
相手が去ると信長は床几を立った。さすがに心は穏やかではなかった。前面ではいよいよ越前の精鋭と遭遇戦になろうとしている。大きなうんめいの岐路にあるとき、背後の浅井が退路をやくして ったのだ。
(わが生涯もこれまでか・・・・)
ふと不吉なものが胸をかすめるほそ、それは思いがけないことであり、同時にどこかで怖れていた事でもあった。
「おん大将、何でござりまする」
光秀の伝令が届いたと見えて、真っ先に本陣へ駆けつけたのは木下秀吉であった。
徳川家康 (五) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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