家康が城中へ密使を送った心の中には、浜名湖のほとりにある相手の城が、いよいよ駿、遠へ翼をのばそうとする家康にとって得難い要害の地であるばかりでなく、その城を戦火にかけては、その構築に要する時間も人手も惜しいというのが第一だった。 すでに氏真の没落を見透し、武田は駿河、徳川は遠江との密約は信長を介して成っている。一日の手遅れはそれだけ武田家の侵蝕
をほしいままにさせることだった。 むろんその裏には後家の生命を助けたいという想いもいっぱいにあったし、新しく支配に入る領民たちの心も計算に入れていたが。 「──
井伊万千代をむざんに殺すのは惜しかろう」 そういい送ったら、後家は正式に万千代を使者に立てて降るものと思っていた。 ところが今家康の目の前に現れた万千代は使者としての体面を全然無視した現れ方なのだ。 「叔母御はおぬしに、予のもとへ使者に参れとは言わなんだか」 万千代は、これも喰いつくように家康を見つめながら首を振った。 「おれは叔母御に降伏を勧めたのだ」 「おぬしが・・・・」 「すると、叔母は、三河の殿ならばよく存じておるゆえ、こなたの口出しは無用と言われた」 「ふーむ、それで・・・・」 「こなたが、それほどに三河の殿を慕わしゅう思うなら、この書面を持ってゆきゃれ。きっと殿はこなたを旗本に寄騎
させてくれようと・・・・」 言いながら万千代は濡れた布子の肌に手を入れ、大切そうに二重に包んだ一通の書面を取り出した。 「殿! わしは次の天下を取る者は禁裏の覚えめでたい織田の殿か三河の殿と・・・・そのことは叔母御にもよく説いた。叔母御もそうであろうと同意された。殿!
わしは大名になって父の仇を見返してやりたいのだ。旗本に加えて下され」 家康は万千代の手から手紙を取ると静かにそれを燭のもとへ広げいった。 本多作左衛門は、家康の足もとにおかれた炭火のそばへうずくまって、こくりこくりと居眠りをはじめている。
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